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健やかでいるための問い(2024,04,20)

 この世界には、焦燥に駆られていたり、何かに飢えていたり、消えない過去に囚われたり、生きる意味を見失ったりする様々な人がいて、その各々が個性と環境との相互作用のなかで物を考え生きている。その直中にいると人は時々、自暴自棄になって過激なことを言いたくなったり、やたらに強く在ろうとしたり、暗く淀んだ場所に留まりたくなったり、逃げ出したくなったりする。時には命を絶ちたくなることすらある。
 しかし坂口安吾が自殺を「生きたい手段の一つ」と語ったように、暴力衝動、被虐衝動、希死念慮ですら、人間の生が結局は「健やかに生きること」に尽きるということの反面なのではないだろうか。実際、インドのケララ州で過ごした日々の異常な充足感のなかでは、あらゆる反省的思考は停止していた。心理的な焦燥感も欠乏感も霧散しており、日本にいる間に時たま感じる嫌な衝動が、食欲と睡眠欲を除いてどこかへ吹っ飛んでいた。五感に触れるもの全てが生き生きとしていて、あらゆるものが健康だった。自分の心身があんな状態に至りうること、それがあの旅での最も大きな発見だったのかもしれない。
 そういうわけで、近代以降生まれ続ける無数の反省的思考も、健やかな生への願いに根付いた物だと考えるようになった。一見するとどこまでも非合理な考え方や信仰、行為でさえも、本人たちにとっては生のバランスを保つために必要なのだと理解するのがいい。ニーチェによれば、客観的・科学的精神ですらも、近代人の生に必要とされるがゆえの価値観なのだという。とはいえ何が必要とされるのかは一般論では説明しえず、どこまでも個人的で人間的な要素であり、そこに生活というものの力強さがある。そこをきちんと思考できるかどうかが、われわれの豊かな生活の探究、フーコーの言う「実存の美学」の問題である。
 ここ3年くらいあれこれ模索し続けた見つけた自分にとっての必要物は、「未来を真剣に考えない」ことだった。卒論を書くなかでやっと自覚的になったのだが、私の場合、現在地点と地続きでない在るべき未来について思考すると、軽い抑うつ状態になってしまう。唐突な眠気、思考能力や意欲の低下、頭痛、神経の緊張などなど。しかし現代社会は絶えず私たちに〈いつかどこか〉を眺めることを要請してくるし、私たちも私たちでそれが正しいと思い込んでいるものだから、振り払えるようになるまでに相当な苦労を要した。
 古来より長期的な未来についての思考を不得手とする人間がいることを、精神科医の中井久夫は指摘している。それは彼の言葉でいえば「分裂病親和者」であり、「杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、全体を推定し、あたかもその事態が現前するがごとく恐怖し憧憬する」という認知特性がある。要するに外部から入力される信号に敏感すぎるのである。しかしそうした認知特性も、臨機応変に住処を変えたり、水や獣を追わねばならない遊牧民族や狩猟民族の社会では極めて有用であり、必要なものである。現代社会ではそれが裏目に出て、現前しない〈いつかどこか〉のことを思考することで、私たちは入力過多に陥って処理落ちしてしまうのだろうか。「社会不適合」という言葉があるが、あの表現は精神医学的に見てもあながち間違ってはいないような気がする。ただし中井久夫の説が正しいとすると、個人が社会に適合できていないのではなくて、現代社会の要請と生来の認知特性が噛み合ってない、と考える方がいいだろう。
 最後に、私たち人間の興味深くも宿命的な点は、皆が健やかに生きることを願いながらも、それが必ずしも完全には叶わないという点にある。現代に生きる分裂病親和者のように認知特性と社会システムが噛み合わない場合もあれば、地理的制約によって住みたい場所に住めない場合などもある。美食家なのに好きで結婚した相手が実はバカ舌だったとか、のんびり生きたいのに親が強迫的でせっかちな場合とかも大変だろうな。そういう時に自然と湧いてくる、自分自身が健やかに生きられるための問いから始まる研究、そういうものを修士課程で出来たらいいなと思う。

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