現代アート(2000年以降アート)って名前負けしてるよねって話

現代 の アート って何だよ


じゃあ未来に行ったら現代アートは何て名前がつくんですか?
2020年アート?2010年アート?

これは賭けても良い、2100年の人間が2020年アートや2010年アートを評価する事はない、そういう事があったという運動として美術史の中で一行か二行、記載されて終わりだろう、コンテンポラリーアートと2000年以降の発生したアートは別物だからだ、前期や後期という区別

シュレッダーにかけられた作品に28億がついた、そういう裏の事情や物語性に価値があったのだそういった多面的な評価をするのが現代アートの特徴だ 

とでも書かれるのだろうか、そもそも28億の価値がついたのは資本主義の末期で余り過ぎた現金の使い処が投資か美術品購入でインフレor税金対策するしか無かった富豪の暇つぶし程度のもので、かかった金銭=価値を表すのであれば美術史そのものの否定でもある、過去のパトロンはあくまで養って描かせて宗教と権威を重視していたという側面が強い(金銭の額=権威ではない)

こういう金銭の額で価値を証明する流れはどちらかといえば金満美術史とでも言うべきだろうか、興行収入=映画の価値みたいな考え方と同じだろう
アートに興味がある人に、 かかったお金=作品の価値ですか?といって「そうです」と答える人は希少だろう

やっぱり圧倒的に命名が悪い

コンテンポラリーなんて付けてしまったのは間違いだと思う
直訳すると現代的な、同期、今風
アールヌーヴォーみたいな 新しい 美術、だったら分かる、時代を超える意思を感じる、しかしコンテンポラリーに意思を感じない、今やってるから今アートなんじゃん?みたいな、命名が気に食わない、凄い事やってるという意思があるならもっと厳かでナルシストな名前を付けて誇ってほしい(そういう悟った感も含めてコンテンポラリーなんだよ、って事なら呑み込まざるを得ないけど)

未来の人達にとって現代アートは今風じゃなくて過去だ
未来の人達はコンテンポラリーアートをなんて名前つければいいんだ
そもそも過去の人達は過去の時代でコンテンポラリーアートなんて命名をつけていない
分類を分ける人が現代アートのカオスをカテゴライズするのが不可能になって面倒くさくなった結果がコンテンポラリーアートという命名が発生した原因である

法が無ければ国ではないように、決められたルールが無いものはアートではなく無秩序なものというのが、あくまで私の一つの考えだ、必ずしもアートに対して寛容であり続ける必要は無い、あくまで個々や組織が好きにやって出来たものがアートでそれそのものは決して高尚なものじゃないからだ

命名のせいで極限無くルールがありすぎる

アートにおけるルールってのは結構重要な話だと思う
何故なら美術史はそのルールに則って解説されるからだ

映画は映画のカメラの仕組みとタイムラインから求められる作法があって、その作法の上でそこを外れているが沿っているか、王道か変則か、成立してるかしていないか、だから映画評論家が解説出来るし、その解説書をファンが買うという構図も出来る

絵画もそうだ、絵具と二次元上の面があって、後は素材の特性や描き方の制約があり、その上でルールがある、これも解説が可能だろう

まず常識的なルールがあって、それをこういう事情で逸脱したのが誰々で、こういう思想が海外から取り入れられたりした事で変化していった、そして個のとあるアーティストがそれに気づいて作品を発表した、そしてそのアートに影響を受けた人がこれこれを~ という形が大体歴史の上で語られる美術史である

これが現代アートには無い、空間アートは空間アートとしての系譜を築けばいい、その空間という制約の中でちゃんとこういう意思で表現をしたというルールの元で解説をすればいい、そうすれば美術館に訪れる人も、そのルールを理解した上で楽しめる

現代アートに言える事は、現代の問題に対して考えた、だからただの既製品の缶4つ置いたら作品になる、これは現代の大量消費に対してなげかける作品だよ

アートって凝り固まった思想の元作られるんでしょ?何も考えず絵具ぶん投げたものもアートじゃん?

そうだね、一休さんかな?

アートの定義を考えるのは面白いと思う、実際私も個々の作品を否定したくはない、あくまで否定したいのは現代アートというジャンルの名前についてだけなのだ、何よりその”ルールを設けなくて良い、常識なんて無いから何でもしても良い” なんてことをやってしまうと、あるのは承認欲求を求める若人と胡散臭い肩書持ちの人に体よく利用されて滅茶苦茶になるって事だ、その滅茶苦茶になった状態も踏まえて現代アートなら、深いなぁと思う

想像してみよう

未来の中では現代アートもきっと美術史の中に加えられるだろう
美術館の中でも取り扱われると思う、学生の美術の時間にもきっと解説されるだろう

その中で時代順に解説をしていく、古代の壁画から壺の絵、宗教画が続いてゴッホやピカソ、きっとアニメーションや映画の事も触れられるだろう
最後に近いページで4つの缶が出て来る、空間にトイレが置かれてる写真や無造作に絵具が垂れた壁も貼られてるかもしれない

解説には、コンテンポラリーアートは当時の時代にあったインターネットや、個々の思いついた形で発表が自由になった事により制約が無い芸術運動が発展した……
もしかしたら他人の創作物を切り貼りしたものも貼られたりしたことの記述もあるかもしれない

未来の人が影響を受けるだろうか?

どうだろう、大抵創作をする人は誰かしらや歴史から生み出されたものから必ず影響を受けている
葛飾北斎が与えたアールヌーヴォーへの影響、ミュシャやゴッホというアーティストがイラストレーターに与えた影響
黒澤明が映画に与えた影響、宮崎駿がアニメに与えた影響、手塚治虫が漫画に与えた影響(分かりやすい人選として)
個々は確かに偉人だが、その偉人も必ず何等かの系譜の影響を受けた結果作品を作っている

何も考えずに壁に放り投げた絵具は誰かに影響を与える事はあるだろうか

私個人が定義するアートは後世のアーティストに与える影響にこそ真の価値があると思って疑わない、作品はあくまでアーティストが行うリレー競技の中のバトンの事なのだ

勿論いろんな考えは合っていいと思うし、どんな作品があっても自由なのは当然という前提はある、誰かと言い争ったり宗教戦争がしたい訳ではない
この記事だって誰かが見れば「視野がせめぇぜ!」ってなるのは間違いない

だたアートであるというには系譜が大事なものであってほしい

簡単に言えば 技術は物質的なものの系譜の積み重ねであり蒸気機関から石油を使った高出力エンジンが出来たのは必ずどこかしら技術の共通点があって工作精度が上がった事によって実現できたという前提がある、いきなり高出力エンジンは作れない、コンピューターだって元は電卓で0と1の仕組みは系譜がある、人間の脳からいきなり生まれたりはしない

これと同じように、芸術は精神的なものの系譜の積み重ねであってほしい
過去の系譜を完全に放棄して、アイデア勝負に出ればそれでアートである、というのはローマの技術を破壊し、医療や工作を無に帰した蛮族とやってる事は変わらないのであると、過去の系譜を考えた上でする破壊をアートとするのと、過去の系譜を考えない事がアートだと言うのは意味が全然違う

今現代アートというジャンルがカオスなのはその両方を容認しているから発生しているカオスである

最後にもっかい書くけど現代アートの個々の作品群を否定する意図は無く
現代アートという名前もうちょっと何とかならないかなという愚痴である

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