段階的欲望という悪習慣の話

※いつもと文体が違います。

まず、欲望Aが一番のゴールだとする。私はAをすればすぐに満足する。だけど罪悪感はBの方が少ない。Bで終わった場合であるが。

と思ってBで終わろうとする。そうするとBの罪悪感はもともと小さく、またそれに使うものへの罪悪感のみ。自分への罪悪感は少ない。

が、実際Aに進むのである。AだけならBとAよりもAのみの方が罪悪感は少ない。だからAに直接向かってすぐに欲望を解消するか、Bを我慢するのではなくBを視野に入れずに、Aを我慢する方が良い。

例を使って考えてみよう。例えば、アニメを見たい、でもそれだと時間がかかっちゃうから漫画を見よう、という人がいるとする。この人は漫画よりアニメが好きなのだとすると、アニメを見ればすぐにこの人の見たい欲は解消される。

この人はアニメの代替として漫画を読むのに、漫画を読むと必ずと言っていいほどアニメ欲に負け、アニメに走り、時間がなくなる。漫画でやめればいいのに、例えばそれが原作だったりするとますます、どんどんアニメを見たくなり、結局それに抗えず、罪悪感も見えなくなり、アニメを見だす。罪悪感が帰ってくるのは良くて見ている間か見終わった直後、悪ければ帰って来すらしない。

そしてそこから、次の恐ろしい段階が待っている。漫画がもし軽い行為であると思っていたとすると、暇だから漫画を見よう、からアニメに移行する、というのがデフォルトになってしまっていくのだ。

この段階的欲望の最も恐ろしい罠は、自分としては罪悪感が少ない行為を選んだつもりであったのに、それが結局はトリガーとなって、欲望を増進させ、その上で最も罪悪感の強い行為に及んでしまうことだ。そしてそれが習慣となると、いよいよAからもBからも抜け出せない。Bを我慢したところで結局は罪悪感が小さい行為ならとやりかねないし、なんならもっと罪悪感の小さいCを生み出してトリガーとなりB、それがトリガーとなりA、になりかねない。大変恐ろしい。

そこで思った、もうBは無視して、Aを最初から我慢すれば良いと。できるのかと言われれば答えは「わからない」だが、BはあくまでAを我慢する手段の一つでもあったわけだから、Aを我慢する手段を代替行為にするのではなく、ただただ我慢、にすれば良いのではないか、と思ったわけだ。Aの罪悪感はもともと大きいわけだし、その行為に対するハードルは高いわけだ。

はい、今から実行して頑張る。

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