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「日本語が苦しい」

「明治生まれの日本語」( 飛田良文著) を購入しました。 
そのわけは、英会話の中で感じる英単語と、明治以降の漢字が当てられた新造語(といっても厳密には3つに分類されているんですけど)から感じる「もの」にすごい違和感が
あるからです。

  例として 「愛」「健康」「権利」など 

日本批判をしたいという想いはありません。
柔らかく丸く、それでいて前を向けるような文章を作りたい。あたたかいものが残るような一歩を踏み出せるような、そんな文章をという想いの先に、この違和感が来るから
なのであります。

理性的な「ちゃんと」した文章でと思ってしまうとこの違和感の壁が立ち塞がります。
行き詰まり、同じ所をぐるぐる回っているような無力感があり、
昨今SNSの言葉が刃となって荒れまくっている様(それは日本語に限らずなのですが)、
議論しても一向に前に進んでいる感覚が得られない様、
じゃあ「何でだろ?」と考えて見た時に、英語を翻訳し、漢字をあてて日本語とした語の解釈が、現代に至って「どうも違うんじゃない?」となんとなく多くの人が感じ始め
ているのにも関わらず、現状、その出来合いの言語で文章を造らざるを得ない。
そして、それを基に思考した行動を取らざるを得ない。

そうすると......なんだか自傷的な....堂々巡りな....最終的にマウンティングで終了のような......?うーん.......のような出来事に帰結して葛藤が生まれたまま、放置される。
のようなことを現状繰り返しているだけに陥ってしまってる気がするのであります。

 では、そこから離れてみて、おそらく自らを構成している遺伝子感覚を頼りに文を
構成しようと思うと、「もにゃもにゃ」したものを「もにゃもにゃ」のまま出すのが
私のせめてもの誠実さに沿った文章ということになります。

変化が訪れる時は、人智超えた力が否が応でもなく来て変わるものですから、それまで
は「もにゃもにゃ」を続けていけということでしょうか。

 この凡夫の私が書いた文章のようなものと同じような感覚を持っている智慧のある方が足元を照らす灯りとなる「日本語」を描いてくださりますように。

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