見出し画像

今日は終戦の日。父が書いた戦争の記録

今年93歳になる父。今は老人ホームで1日中ベッドの上、目を開けることもほとんどないし、意思の疎通もできません。その父が書きためていた長い文章。本にすると約束しながら、未だ実現できずにいます。お父さん、ごめんなさい。

終戦の日の今日。そんな中から当時18歳だった父の戦争の記録を拾ってみました。
昭和25年5月25日。生まれ育った東京・港区芝で、父はB29の襲撃を受けたそうです。目の前で増上寺に祀られていた徳川秀忠の供養塔である五重の塔がメラメラと燃え、焼け落ちたことは、何度か聞かされたことがあります。

我が町芝新堀町炎上

昭和20年5月23日と25日の相次ぐB29の夜間焼夷弾攻撃により、わたしが住む芝新堀町(東京・港区)は、芝園館(映画館)とわずかの土蔵を残して全焼しました。23日は芝園橋寄りの南西部が焼失し、25日は残りの町域が焼野原になりました。

油脂焼夷弾とエレクトロン焼夷弾
23日は油脂焼夷弾(70センチくらいの長さの鉄の筒の中に引火性の高い油脂が入っており、着弾とともにその油が飛び散ってまわりの物に付着し、次第に延焼していく)、25日はエレクトロン焼夷弾(30センチくらいの長さで、落ちて本体が燃え尽きるまで、マグネシュームのように煙々たる白銀色の火花を吹き出す)によって、我が町、芝新堀町は焼き尽くされたのでした。当時の木造二階建て家屋の場合、屋根、二階の床を貫いて、一階の畳の上で止まるほどの威力でした。両焼夷弾とも、親爆弾の中に数十個の小型焼夷弾が収められており、空中で爆発し自動点火してばらばらと落ちてくる仕組みなのです。焼夷弾が花火のように降ってくるというのはそういう訳なのです。

さて、家の床下に掘った防空壕から屋外に出ると、夜中だというのにあたりは大火災の焔で明るく、空は赤黒かったのを覚えています。

B29が向かってきた

間もなく芝公園の方角からB29が一機、こちらに向かって来ます。石を投付けたくなるほど低く、ジュラルミンの機体の腹が、地上の火炎を映して赤く光っていました。次の瞬間、花火がはじけるように、ぱっと空に光が拡がり、こちらをめがけるように落ちてきました。

急いで防空壕に駆け込みます。ざーっという大雨がトタン屋根をたたくような音、一瞬音が止みます。

しかし次の瞬間ガチャガチャという物の壊れる音、無意識に壕から飛び出しました。中風で寝たきりの祖母の枕元に一発、焼夷弾が白光色の焔を吹きあげています。泣き叫ぶ祖母を父が布団ごと背負って、私に「頑張れ」と声をかけて屋外に脱出しました。

店(当時ふとん屋)のウインドウのガラスと商品の間に落ちた一発は、こちらに向かって物凄い火花を吹き出していますから、つかみようがありません。抵抗もそこまででした。身の危険を感じて逃げ出します。

家の外にあった自転車と空のリヤカーを持ち出すのが精一杯でした。あわてているので自転車の鍵が開きません。そのとき、新堀通りの方から、男の子が小さい女の子の手をひいてくるのに出会いました。声をかけ、女の子をリヤカーに乗せ、鍵の開かない自転車を、大型貯水槽の中に投げ込み、一緒に逃げました。我が家の方を振り返ると火の手が上がっていました。しかし感傷にひたっている暇もありません。足は自然と芝公園に向かいました。

芝園橋の交差点に消防車が一台、あまりの火勢の凄さに立往生していました。泣きだしそうな消防士の顔が今でも目に浮かびます。芝公園のグランド近くまで行きました。今となっては本当にそうであったかは疑問ですが、そのときの印象は、広い日比谷通りに人っ子一人見えなかったようにも思えます。もう焼夷弾も降って来ませんし、上空にB29の姿もありませんでした。

目の前で焼け落ちた増上寺の五重の塔

目の前の東照宮の山門(国宝であったと思う)(注:御神像の寿像と天然記念物の公孫樹を除いて消失の記録あり)の上層の方で火がチョロチョロ燃えていましたが、消そうという気も起こりません。やがて火は門全体を包み、無人の日比谷通りを真昼のように照らしながら燃えていきました。

丸山の上では、五重の塔(注:徳川秀忠、台徳院の供養塔)が燃えていました。塔は建ったままの姿で紅蓮の焔に包まれ、てっぺんの銅製の飾り金具から青白い焔を上げ、しばらくは美しい姿を保ち、やがて焼け落ちていきました。

当時芝公園のグランドは陸軍の高射砲陣地になっており、見通しをよくするため、丸山の木を切り払っていたので、山上の五重の塔の焼けるさまは各地から望見され、その様子はしばらくの間、語り継がれていました。

やがて火勢も収まり空が白みかけたころ戻った我が町新堀は、まさに焼け野原でした。そこには、顔中煤で真っ黒になった父が待っていて、戻った私に飛びつき「死んだと思っていた。生きていて良かった」と泣きながら抱きしめてくれました。そのときはちょっと照れくさいような気がしましたが、後々まで父の愛情を思い起させるような一幕でした。            (田中正大記、当時18才)

※本人の記憶によるものです。記憶違いなどもあるかもしれません。
※町内の他の方の聞き書きも残っていますが、個人情報もあるので、ここには記載いたしません。

今、私が曲がりなりにも書くことを生業にできているのは、少なからず父のおかげだと、最近になって感じています。

父の戦争の記録を読み返しながら、今、老人ホームのベッドの上にいる父が元気だったら、見えないコロナという敵との戦いをどんな風に書き残すのだろう……、そんなことを思っています。それにしても父が元気なうちにもっと話を聞いておけば良かった。後悔はいつもあとから着いてきますね。

最後まで読んでくださってありがとうございました。

<虹の写真は、ハワイに住む友人が贈ってくれたものです>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?