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『花束みたいな恋をした』


花束を構成する花々の名前を、私は知らない。


劇中で、絹は麦に「花の名前を女の人から聞くと、男の人はその花を見るたびにその女の人のことを思い出すんだって」と言っていた。
それを聞いた麦は「じゃあ教えてよ」と言うが、絹は教えない。

友人と会った帰り道、電車に揺られながら絹は「カップルでタトゥー掘るって、一生別れない自信があるってことだよね」と言った。
麦は「なに? 絹ちゃんは自信ないの?」と尋ねるが、絹はふふふと笑って誤魔化した。


絹は、二人に別れがあることを予感していたというか覚悟していたし、それを前提として付き合っていたんだろう。
一方で麦は、結婚をすれば、一緒にいられれば、それだけでどうにかなるもんで、別れる必要はないと考えていたんだろう。

だからこそ麦の立てた目標、「現状維持」に対するズレが生じてしまった。
麦にとってのこの目標は、あくまでも「絹と二人でいる」という事実の維持であって、絹は「同じ趣味、同じ時間を共有して歩んでいく麦と自分」という関係性を指しているもんだと思っていたのではないか。

絹が分かっていたように、はじまりは終わりのはじまりでもある。つまり、恋人どうしになっても、いつかは終わりを迎えてしまう。それが数週間数ヵ月後なのか、数年後なのか、結婚をした後なのか、互いに天寿を全うしたあとなのか、それは誰にも分からない。
どんな形にせよ、別れが待っている。

絹はそれを知っていたから、麦と同じ趣味、同じ時間を共有することを望んでいながらも、いつまでも一緒にいられるわけではないことを見越して、麦に花の名前を教えなかったんじゃないか。

花の名前を麦に教えてしまったら、麦は一生その花を見て私を思い出してしまう。だけどきっと、それではダメなんだ。



花束みたいな恋をした、というのはきっと麦の言葉だ。
と私は思う。

ひとつの花束に含まれるひとつひとつの花の名前を、知っている人はそうそういないだろう。
だから、「花束」ということだけは分かるし、人からの贈り物であるならば、「あの人から花束をもらった」という記憶だけはきっといつまでも思い出される。
だけど、そのひとつひとつの花は思い出せない。どんな花が集まった花束であったのか、思い出せない。

絹は、麦に花の名前を教えなかった。
だから麦は、花を見ても絹のことを思い出さない。
そしていつかきっと、絹のことを思い出す回数が少なくなっていく。

絹とはたくさんの思い出を作った。長い時間一緒にいて、いろいろなことを経験した。
でもそういう風に、思い出を”一括り”にして、麦は絹と付き合っていたことを思うんじゃないか。


劇中での2020年、絹と麦はばったり再会をする。互いに新しい恋人を引き連れながら。だけど二人は会話をするわけでもなく、ただ背中越しに片手を挙げて、訣別をする。
家に帰って、絹は麦に髪の毛を乾かしてもらったことを思い出す。
麦は絹と一緒に買った、焼きそばパンのパン屋さんを思い出す。

何かキッカケがあれば、二人は互いのことを、付き合っていたときのことを思い出す。
だけど、キッカケがなければ思い出さなくなる。
そしてそのキッカケは、月日を重ねるにつれて、新しい恋人と思い出を重ねるにつれて、失われていく。

絹と付き合っていたという事実は変わらないし、忘れない。
だけどいずれ、思い出さなくなる。
そして、新しい花束を麦は手にする。


花束みたいな恋をした、というのは麦の言葉だと考えたけれども、誰にとってもそうなのかもしれない。
誰だって、今まで付き合ってきた人のことは覚えている。でも、その人とどんなことをしたのか、どんな思い出があるのか、それらを常に反芻する人は多くはない。多くの人は、次へ次へと進もうと、過去と決別をする。過去の自分と、恋人とお別れをする。

ひとつひとつ、些細なこともどんなことでも、大切な思い出。ひとつの小さな花。そういうものがギュッと集まった、二人の付き合った思い出。ひとつの大きな花束。

みんなはきっと、そういう花束みたいな恋をしているんだ。


もう一つ。麦と絹は、自分の好きなものが同じだったばっかりに、話が絶えず続いたばっかりに、もっと根本的な互いの価値観を知らずに付き合っていたんじゃないか。
だから、実は“ミイラ展に興奮する絹”にちょっと引いていたという麦や、ガスタンクの映像が退屈だったという絹がいたことに、別れ間際になってやっと知ったんだ。

だけどきっと、これはみんなそうなんだろう。趣味や好きなものの一致は、恋愛のキッカケにすぎない。
そして、趣味や好きなものが同じだったりすると、共通点が増えるけれど、きっと新しいことを教えてもらう機会は少ない。
異なる趣味で、異なる考え方をしている人にこそ、自分では知りえないものを教えてもらえるものだ。そして教えてもらったものは、自分の中に生き続ける。
つまり、花の名前を教えてもらうようなものだ。

そしてまた、人には人の花があるだろう。どんな色をしてどんな形をして、どういうものがあればきれいに花咲かすのか、逆に何が花をしぼませるのか。人によって持つ花は異なる。
絹と麦は、互いに花の名前を教え合わなかった。そして、仕事という現実を通して、さらに互いが持つ花の名前を教え合うことができなかった。
絹が持っている花、麦が持っている花。それぞれのことを教え合えば、理解すれば、もしかしたらすれ違いは生じなかったかもしれない。


ひとつひとつの花を知っていることは少なく、一つの花束だけを思い浮かべることは容易い。
ひとつひとつの思い出を思い返すことは年月を重ねるごとに減っていき、ひとつの付き合った事実だけを思い返すことは簡単である。

終わりが分かっているからこそ、いくつもの花の集まりであるような恋愛を大切にできるのかもしれない。
人には花があることを知っているからこそ、その人の花の名前を知ろうとできるのかもしれない。


『花束みたいな恋をした』
この作品は、一組のカップルのはじめからおわりまでを描いたものである。この作品を通して、何を感じたか(――人が変わらないことは難しい)。この作品のタイトルの意味は何か。そういうことを一日かけて考えることができた。
あくまでも自分の考察である。
ここからは、いろいろな人の考察を読み漁ろうと思う。

この作品のよかったところは、キャスティングが絶妙に攻めているところである。冒頭から萩原みのりが登場したこともビックリしたし、森優作も遊屋慎太郎も登場していて、『佐々木、イン、マイマイン』の陰をちらりと見た。
また、穂志もえか、渡辺佑太朗、萩原利久、清原果耶、細田佳央太も短い時間であるが登場していた。えっもう終わり!? という気持ちに多々なった。
あと個人的には、『桐島、部活やめるってよ』の野球部キャプテン・高橋周平が、麦の会社の先輩を演じていて、勝手につなげて解釈してしまった。そうか、ドラフトが終わるまで野球部に在籍していたキャプテンは、会社に勤めて営業マンになってたんだなあ…と。

ともあれ、色々考えさせられた映画でした。おわり!