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「無敵の人」が集団化する恐怖

「無敵の人」という表現は元々ネットスラングなだけあって、なかなかに乱暴な言い方だなと思うが、一般化した表現で分かりやすいので使わせて頂く。

持論だが「無敵の人」には2種類いると思っていて、

1つ目には、善悪の区別のつかない人、区別のない人。知的障害や心的要因で善悪が分からなくなっている人や、性質としてサイコパスなど善悪よりも快楽が優先されてしまう人。

2つ目には、失うものがない人。孤立無援の人。善悪の区別はついているが、自分が犯罪をしても失って困る地位や職・金などがなかったり、困る親族などがいない、もしくは自分が犯罪を犯すことでむしろ困らせたい相手がいる場合である。

「無敵の人」は善悪が分からずに迷惑行為をしたり、快楽や世間への復讐とかで犯罪をおかしたりしてきたわけだけど、今までいた「無敵の人」は、基本的に「1人だからこそ無敵」だったし、孤独だからこそ「無敵になってしまった」。

だけど、昨今は「無敵の人」が集団化してきて「無敵の人たち」になってきている。
善悪の区別がつかないとか、社会的に孤立しているわけではなく、「自分たちが正しい」「自分たちさえよければいい」のである。
旭川の事件でも加害者が警察を仲間にしていたり、
不法入国者を支援している団体がどんどん海外から人を呼び込んで、非常識な行為を繰り返している。

「無敵」な部分として変わらないのは、善悪の概念で説得が不可能で、社会的立場を失う事を恐れず、通報で怯まないということだ。そして「無敵の人」から「無敵の人たち」になる一番の恐ろしさは逮捕=平穏ではないことである。

先日も事件が起こってしまったが、
例えば女子中学生が性被害にあったとして、それを両親に報告して加害者が逮捕されたとする。しかしそれを逆恨みした加害者の仲間が女子中学生やその親を殺してしまったとしたら。
次に襲われた子は親にそのことを言えるのか。自分や親も殺されるかもしれないと耐え忍んでしまうのではないか。

もし通報した人が逆恨みして殺されたら。逮捕されたことを逆恨みして、警察官やその家族が殺されたら。目撃しても見て見ぬふりをしたり、警察をやめたり、取引に応じたりする人が続出してしまうのではないか。

殺されるまでいくのは例が極端かもしれないが、違法解体の業者を注意した人が車にくぎを刺されるとか、廃材を家の前にまかれ続けるとかそういった被害は容易に考えられる。

外国人だから、外国籍だから絶対危ないという事はないが、集団で不法入国したり、本来の意味とは違う角度から難民申請したり、生活保護を申請したりなど、日本の制度を利用したり、好き勝手したりする目的で入国する人たちは多く、やはり文化の違いは大きいと感じる。
もちろん、日本が好きで移住してくれる外国の方もいるし、本当に困って逃げてくる難民の方もいるだろう。
ただ、やはりなかなか区別も難しく、迷惑をかける気がなかったとしても土葬などの文化の違いで衝突する事も考えると、個人的には移民受け入れには反対である。

もちろん日本人であっても、大げさに言えば「女子高生コンクリート詰め殺人事件」の加害者のような、身内や仲間以外の人権を認めないような振る舞いをする人たちが増えてきていると感じる。
性善説やら暗黙の了解やらで何とかなってきたものが、「書いていないから」「他の人もやっているから」と非常識なふるまいを当たり前にする人たちによって、無法地帯になりつつある。

「通報するぞ」で怯むのは、相手が「社会的に認められて生きていきたい」と思っているからであり、逮捕されて一旦平穏に戻るのは敵が「無敵の人ただ一人」だった場合であり、「無敵の人たち」には通用しない。

味方にすれば組織票を投じてくれる宗教団体や、このまま日本人が減ればいずれくるであろう外国人の選挙権獲得での大量票を狙った外国人団体との癒着など、自分さえよければで「無敵の人たち」と手を組んだ政治家や官僚が、利用しようとした勢力に家族や親族を理由に脅されて、結局は利用されていき、国が崩壊していく。そんな未来がすぐそこに来ている恐怖をひしひしと感じている。

被害にあっても警察も政治家も助けてくれないとあっては、自衛に努めるほかないのだが、銃社会でない日本では他の被害者を見捨てて逃げる以外の選択肢がなく、そこまで国として落ちぶれないことを祈るほかない。

自分に子供がいなくても、甥っ子や友人の子供たちもいるし、自分の代が終わったらどうでもいいとはさすがに思えない。
子供たちが少しでも生きやすい未来が今後も続くように、一市民に出来ることは限られているけれど考えるのはやめずに生きていきたいなと思う。

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