見出し画像

愛玩の君 ─5─

   闇の中を抜けると、前に夢で見た大きな屋敷の前にいた。庭の萎びた薔薇から芳醇な香りが漂う。腐る前の果実が美味しいように、薔薇もまた、枯れ際が最も美しいのだろうか。
   冷たい空気が肌を伝った。すると、私の意識は、何か見えない糸で操られているように、私をただ前に歩ませた。
   あの時、私と一緒に闇の中に吸い込まれた3人は、一体どこに消えたのだろうか。
   奇妙な目に合いすぎて、無駄に冷静な自分がいるのに、なんだか頭の中がぼんやりとしてきて、上手く考え事すらできない。フラフラと館まで続く小路を進む。聴こえてきたピアノの音色。それは私に不思議な安心感をもたらした。このまま眠ってしまいたいと思ったほどだった。
   館の重厚な扉の前には、燕尾服を着た小柄で白髪の老人が立っていた。
「橘様、ようこそおいで下さいました。」
そう言って、私に封蝋をされた赤い封筒を渡した。
「こちらはこれからあなたのお印になるものです。どうぞ館の中に入ってから開封されて下さい。」
   老人はギギギと扉を開けた。
   私は渡された封筒の意味を尋ねる気になれないほど朦朧としていて、誘われるままに中に入った。
   館の中の壁には、夢で見た通り、隙間なく人形が飾られていた。私は人形の視線を感じながら、ピアノの音色がよく聴こえる方へ導かれるように赤い絨毯の敷かれた廊下を進む。
   音のする部屋の扉は開いていて、中には立派なグランドピアノを演奏する倉田がいた。その広い部屋の壁にも、当然のように隙間なく人形が飾られていて、メイド服を着た白髪の高齢の女性が、ひとつひとつ丁寧にそれらの人形を布で磨いている。その膨大な数を思うと、その女性が不憫にも思えた。
   私は倉田のことをあんなに嫌悪していたのに、いつの間にか彼の弾くピアノの音色に酔いしれ、好感すら持ち始めていた。それほどに演奏は素晴らしく、倉田にこんなにもピアノの才能があったのかと驚くほどだった。それでも、ヨースケくんの存在はまだ私の中で大きなもので、誰にも塗り替えられない。それだけは言える。
   倉田が私に気づき、ピアノを弾く手を止めた。音がなくなると、たちまち私の倉田への嫌悪と怒りが蘇る。そして、朦朧としていた意識がはっきりとして、ようやく私は身の危険を感じ、この館から出なければならないと焦った。そんな私を見透かしたように
「もう逃げても無駄だよ」
と倉田が笑う。
   その台詞を合図かのように、どこからともなく太鼓やシンバル、鉄琴などの音がリズム良く鳴り響きはじめた。それはマーチングバンドの演奏を思わせつつも、独特な楽曲で今までに聴いたことがない。そのリズムに合わせて、呪文を唱えるようなおどろおどろしい声がする。
「フゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィフゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィ……」
奇妙な音楽も呪文も止むことを知らない。
  私は恐ろしさに震え、どうにかこの屋敷から抜け出そうと考えた。元来た道をもどり、出口を探すも、広い館の中は迷路のようで、どうにも見つからない。
  止まない音楽と呪文は私に吐き気をもよおさせた。口の中にたまる唾液が口端から垂れ落ちる。
   ブルブルと体が震え始め、私は思わず手に力を入れた。そうしてぐしゃぐしゃと握りしめてしまった赤い封筒の封が開く。すると、背中に焼けるようなとてつもなく熱い痛みを感じた。そして何故か、着ている服がボロボロに解けはじめた。私の抵抗も虚しく、服は跡形もなく消え去り、私は真っ裸になった。
「助けて!誰か助けて!」
  恐怖と羞恥で涙が止まらない。
 
   ずっと鳴り続けていた奇妙な音楽と呪文がピタッと止んだ。
   
   立ちすくむ私の元に、廊下の奥からくるみ割り人形を思わせる、おもちゃの兵隊のような格好をした男たちが駆け寄ってきた。私は逃げて逃げて逃げ続けたが、とうとう捕まってしまう。 赤い絨毯の上に抑え込まれ、起き上がろうと暴れると羽交い締めにされた。近くで見るその男たちの顔は、まるで陶器のように艶々していて、本当のおもちゃみたいだった。そのうちのひとりに殴られ、私は気を失った。

   気づいた時は、私は裸のまま椅子にロープで縛り付けられていた。身動きが取れず、うなだれる私の頭を倉田が両手で上げて、前を向かせた。私の目の前には長いテーブルが置かれ、その上には小さな裸の人形が4体並べられていた。それを倉田が左から順に指さしながら私に説明を始めた。
「橘なら、俺が言う必要もなくわかるだろうけどね?この子は陽介、この子は望美、その隣のこの子は望美の娘の菜々ちゃん。あ、この子は誰かわからないかもね。永田だよ。陽介に指図されるがままに俺の顔を殴った永田。下の名前はサトシ。」
私はわけがわからず、呆然とその人形を見つめるしかなかった。
「俺、あのクラス全員の名前ちゃんと覚えてるんだぜ。もちろんその家族の名前も。忘れたら、ヌワイエ様に人形にしてもらえないから。」
「人形にしてもらうって、どういうこと?」
「そのままの意味さ。」
「ヌワイエって……あのマッシュボブの……」
私は倉田に顔を張り手された。
「ヌワイエ様を軽々しく呼び捨てにするな!あれはヌワイエ様の化身だよ。」
「化身?」
「そう。ヌワイエ様は、このお方だよ。」
倉田はそう言うと、テーブルの下に置かれた黄色のリュックの中から古いノートを取り出した。そしてペラペラとめくり、あるページを広げて私に見せた。
   そこには、鉛筆で書かれた子供の落書きのようなものがあった。頭から黒いマント被り、顔もぐるぐると黒く塗りつぶされている人影のようなその絵の下に、〈ヌワイエ様〉と癖のある字で書かれていた。
   絵を見つめていると、頭が割れるように痛くなった。
   ズズズズ……
   黒い影がノートから浮き出てきて、次第に大きくなっていく。そして目の前に現れたのは、その絵の通り、頭から黒いマントを被った顔の見えない男だった。
   マントの男の声は、さっきずっと唱えられていた呪文の声と同じだった。何かわからない言葉でブツブツと言い始める。私はまた気分が悪くなり、吐き気をもよおした。
「僕の手を離れてね、ヌワイエ様は世界をおつくりになられたんだ。この人形たちの世界を」
倉田は笑いながら続けた。
「言っただろう?橘は俺のものだ。橘が寂しくならないように、ちゃんと仲間を、用意したんだよ。」
そう言って目の前の人形たちを手に取り、幼子をあやすように私に見せた。人形の胸元にはそれぞれ〈ヨウスケ〉〈ノゾミ〉〈ナナ〉〈サトシ〉と刻まれていた。どれも背中に薔薇の花の刻印がされていた。
   倉田は上の服を脱いで、私に背中を向けた。倉田の背中にも、人形たちと同じように、薔薇の花の焼印がされていた。もしかして、さっきの背中の痛みは……。
   私はもうこれ以上何も抵抗する気がなくなっていた。ただただ疲れ果てて、殺されるのなら早く楽になってしまいたいと思った。

「フゥイテェウホォラウルゥアーヤァイニィ」
マントの男は倉田からシャーペンを渡されると、ブツブツとつぶやきながら、私の胸に傷をつけていく。

   ア

   ヤ

   カ

   そしてただれたキスマークの痣を優しく撫でた。

〈アヤカ〉と滲んだ血の文字が浮かび上がると、私は痛みに絶叫した。髪が抜け落ち、体の肉が腐り溶け、肉片がボタボタと落ちていく。溢れる血からは薔薇の香りが漂った。
   私はもしかしたら今の私がいちばん綺麗なのかもしれないと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?