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愛玩の君 ─3─

   気分が悪くて気も沈んでいたが、仕事を休むわけにもいかず、寝不足で重い身体を引きずるように会社に出勤した。頭の中ではずっと、夢の中で聴いたピアノのメロディがリフレインしている。私はその音を振り払いたくて、頭を横に振ったり、軽く頬を叩いたりした。
「橘さん、おはよう。多分そろそろ取り引き先から連絡あると思うから、メールチェックしといてくれる?」
フラフラしている今日の私は、上司の目に頼りなく映ったようだ。子供に言い聞かせるみたいに、言われなくてもわかっていることを念押しされてしまった。元気を取り繕って「わかりましたー!」と明るい返事をした。仕事に打ち込んで、不安から逃れたい気持ちでいっぱいだった。
   いつものように自分のデスクに向かい、パソコンを起動させる。メールアプリに3件の通知が来ていた。開こうとして、通知の数字が4、5、6……と増えていくことに気づいた。7、8、9、10……11、12、13、14……
「何なのこれ……」
それは止まることなく増え続ける。私はその数字から目が離せなくなって、恐怖を感じていると、突然パソコンの画面が真っ暗になった。故障?ウイルス?わけがわからずにいると、パッと画面が切り替わった。映し出されたのは、人形の写真だった。赤い絨毯の上に寝かされて、萎びた1輪の薔薇が添えられている。くるくるとした柔らかそうな髪はふたつに結ばれ、つぶらな瞳からは今にも涙が零れてしまいそうだった。その小さな可愛らしい人形は、夢で見た人形のように丸みを帯びていて、服は着せられていなかった。胸元には〈ナナ〉と刻まれている。

ブー、ブー、ブー
混乱していると、上着のポケットの中の携帯が震えだした。見ると望美からの着信。嫌な予感しかしなかった。
「もしもし?」
「ひっく、う…ぅ、うっ、あ…あぁ、どう…しよう、ね…え、どうし…よう……」
望美の泣きじゃくる声。電波が悪いわけでもないのに、ノイズが入って聞こえづらかった。
「もしもし?ねぇ、望美どうしたの?大丈夫?落ち着いて話せる?」
「娘が…ぁ、う…ぅ、娘が、菜々ななが居な…くなった…の」
絞り出すように話す望美の声は、次第に遠くなっていき、とうとう無音になった。もう何も聞こえない。
「もしもし?もしもし?」
電話は切れていた。慌てて電話をかけ直しても繋がらない。

震え上がる私に気づいた先輩が声をかけてきた。私はパソコンの画面を指さしながら
「見てください、これ。昨日夢で見た人形なんです。どうしよう、助けて!」
と涙目で叫んでしまっていた。周囲がこちらを振り向き、ざわつく。
「イタズラにしても悪質過ぎます。人形の写真なんて、誰がこんなことするの?私、誰かから狙われてるのかもしれないんです!今、友達からも電話が来て。もしかしたら、彼女の娘が誘拐されたのかもしれなくて……。一体何が起きてるの?何もわからない、わからないけど……。」
そう叫んで、恐怖に怯える私を見て、先輩は困惑して言った。
「人形の写真って何?そんなの何も映ってないよ?」
「そんなはずは」
再びパソコンを見ると、通常のトップ画面に戻っていた。
「橘さん、疲れてるんじゃない?今日はもう早退きしなよ。ずっと顔色も悪いし。」
目眩がした。先輩の顔がブレて見える。
「ちょっと言いづらいけど……今度社内のカウンセリング受けてみたら?もし何か悩み事あるならちゃんと話してみて。精神的ストレス抱えると、体に良くないよ。だからさ、明日……」
私は気が遠くなるのを感じた。自分では体を支えられなくなり、倒れ込んだ。先輩が私の名前を呼ぶ声が次第に小さくなり、ピアノの音色が聴こえてくる。ショパンのノクターン。ヨースケくんが演奏を得意とした曲だ。

   闇の中で聴こえるその綺麗な音色はぐわんぐわんと歪んでいき、音程が定まらなくなった。そして、耳をつんざくような不協和音が響きだした。まるで音に踊らされるような感覚でいると、闇が微かに明けて、モノクロ映画のような世界が目の前に拡がった。

   私は母校である高校の2年4組の教室にいた。黒板に書かれた文字や日付はぼやけてはっきりしない。外から蝉の声が聞こえる。席に座っているのはかつての若かりし姿の同級生達。みんな夏の制服を着て授業を受けている。私はそれを教室の前から眺めていた。まるで過去の記録映像を見ている気分だった。先生も同級生達も、私の姿には目をくれない。私の存在など無いように授業が進められていく。見渡すと、窓際の席に当時17歳だった高校生の私も座っていた。
   当時は高2で文系・理系ふたつのコースに分かれてクラスが決まり、そのまま同じメンバーでクラス替え無しに3年に上がるシステムだった。だから、見知った顔しかいないはずのに、ひとりだけ、記憶にいない生徒がいた。細身で目の細い、気の弱そうな男子生徒。私の隣の席に座っている。よくよく見て、私はハッとした。彼が、私と一夜を過ごしたあの名前のわからない男にそっくりだったからだ。私の後ろの席にはヨースケくんが座っていた。私は、ヨースケくんが黒板を見つつ、時々その視線を17歳の私の背中に向けていることに気づいた。嬉しさで気持ちが弾んだ。17歳の私に教えてあげたいと思った。
先生は黒板にチョークで何か書くと
「誰かこのを英文を和訳してくれ」
と言って教室を見渡し、
倉田くらたに訳を書いてもらおう」
と、例の私の隣の席の男子を手招いた。
もしかして、名前のわからないあの男、倉田というのだろうか?
倉田は席を立ち、前に出てくると、黒板にチョークで解答を書いたようだ。先生が「パーフェクト!」と倉田を称えた。けれど、教室のみんなは何も見ていないかのように無反応で、シラケた空気になった。
倉田が席に戻ると、17歳の私は机を窓際に少しずらして、なんだか嫌そうな顔をしていた。倉田はその様子を見て見ぬふりしているみたいだった。
誰かのヒソヒソ話が聞こえた。
「倉田、昨日橘に告白したらしいぜ」
「わー、それヤバくない?」
「そりゃヨースケ様がお怒りになるわけだわ」
   ヨースケくんは消しゴムのクズを倉田の背中に投げつけていた。17歳の私はそれに全く気づいていない。倉田は暗い顔をして、教科書を読んでいた。

   このモノクロの世界に来てから、どれほどの時間が経ったのだろうか。その間、倉田を無視する生徒が少しずつ増えていき、とうとう2年4組の生徒全員が、倉田を居ないものとして扱うようになっていた。そして、ヨースケくんが主導する倉田へのいじめがエスカレートしていった。ヨースケくんが直接倉田に手を出すことは無かった。けれど、ヨースケくんに指示された数人の男子生徒は、学校の裏に倉田を呼び出して殴る蹴るの暴力をふるったり、倉田の教科書のページを破り捨てたり、靴の中に画鋲を入れたり、過激な方法や陰湿な手段で倉田を追い込んでいった。手荒いいじめは17歳の私に見えないところで行われていたけれど、そんな当時の私もクラスのみんなにならって、倉田と極力関わらないようにしていたのは間違いなかった。

   私はたまらない気持ちになった。
   このクラスでいじめが行われていたこと、私自身がいじめに少なくとも加担していたこと、いじめの主犯格がヨースケくんだったこと、そして倉田という消された存在。
   私が忘れ去っていた過去と知らなかった〈真実〉が浮き彫りになり、私たちひとりひとりの醜さ、残酷さを思い知らされたのだった。

   このいじめは先生達にも薄々把握されていた。それでも彼らは将来有望なヨースケくんを咎めることは無かった。倉田を守る人はひとりもいなかったのだ。

   そうしていじめが見過ごされる中、とうとう倉田の心を打ちのめす、決定的な事件が起きた。


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