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愛玩の君 ─4─

   その日も教室でいつものように全員に無視されていた倉田は、最後の授業のチャイムが鳴ると、急いで帰宅する準備を始めた。黄色いリュックの中に教科書などを詰め込んでいると、その拍子に中から1枚のプリントがひらひらとヨースケくんの席の下に落ちていった。ヨースケくんはそれを拾い上げて顔色を変えた。それがピアノの楽譜だったからだ。
「おい、お前ピアノ弾くのか?」
ヨースケくんは明らかに怒りに満ちた声で倉田にそう質問をした。
   みんなは静かにふたりに注目し始めた。
   倉田は無言のままだった。
   ヨースケくんは、いつも倉田をいじめさせている男子生徒3人に目配せすると、彼らは倉田と仲の良さそうな振りをしつつ、倉田の背中を押しながら教室を出た。時間をあけて、ヨースケくんは倉田の黄色いリュックを手に取ると
「倉田、忘れ物したみたいだな」
と言って、教室を出ていった。私はその後を追った。

   ヨースケくんは人目を気にしながら体育館の裏に歩いていく。そこに先に着いていた男子生徒たちは、倉田を地面に座らせて、立ち上がれないように腕や肩を押さえつけていた。

   私はこれから起こることを見たくなかった。ヨースケくんの非道さをこれ以上受け止める自信がなかったからだ。それでも、ヨースケくんを嫌いになることができなかった。そして彼に盲目的な自分を突き放せなかった。

   ヨースケくんは、ファスナーの開かれたままの黄色いリュックを逆さまにした。バラバラと音を立てて、中に入っていた教科書やペンケースなどが放り出される。その空になった黄色いリュックを押さえつけられている倉田の頭に被せた。倉田は掠れた声を出した。
「お前、泣いてるのか?」
ヨースケくんは笑った。その様子に従って男子生徒達も笑う。
   ヨースケくんは、何か思いついたように落ちているペンケースを拾い、中からシャーペンを取り出した。そして、倉田の制服のシャツのボタンを細長い指で上から開けていき、バッと両手で開くと、肌けた胸にシャーペンの先を突き立てた。そのままガリガリと削るように文字を刻んでいく。
「うぅ……」
倉田は小さく呻いた。胸に赤く血で滲んだ細い文字が浮かび上がってきた。
〈タクマ〉
ヨースケくんは満足気な表情をして
「お前にピアノが似合うわけないだろ。二度と弾くな」
と吐き捨てると、男子生徒にリュックの上から倉田の顔面を殴らせた。
   倉田は憔悴した様子でだらんと頭を下げたまま動かなくなった。
   それを見て、ヨースケくんはまずいと思ったのか、「行くぞ」と男子生徒たちを引き連れてその場を後にした。
   のっそりと動き出した倉田は、重々しく頭から黄色のリュックを脱ぎ取った。唇まで流れる鼻血を手で拭い、青ざめた顔をしてしばらく咽び泣いていた。

   数日後、倉田は転校した。クラスのみんなは倉田のことを綺麗に無かったことにした。倉田のことに触れる生徒は誰も居なかった。
   私は、みんなのその態度が、高3の夏にヨースケくんが姿を消した時とまるで同じだと思った。みんなが同窓会で、過去を受け止めるための糸口を探していた、なんて、あれは私がヨースケくんを好きなあまりに勘違いしていただけなのかもしれない。きっとヨースケくんが消えてから、みんなも綺麗にヨースケくんの存在を無かったことにしたかっただけだったのだろう。そう思った。私はこれらの冷たい〈真実〉を目の当たりにしてきたせいか、疲弊しきっていた。考えることが多すぎて、頭の中も心の中もぐるぐると渦をまくようだった。

闇の中に招かれている気分だ。

だんだんと目の前が暗くなっていく。モノクロの世界は小さく小さくなって消えていった。


   目が覚めると白い天井が見えて、私はまだモノクロの世界に居るのかと思ったけれど、窓から差し込む光が淡い橙に色づいていて、ここが現実の世界だとわかった。
   私は病室のベッドに横たわっていた。左の腕には点滴の針が刺されている。半開きにされたカーテンの隙間からのぞく夕焼け空を眺めながら、夢とうつつの間をさまよう私という存在のとりとめなさを感じていた。
   看護師が病室に入ってきて、私が目を覚ましたことに気づき、優しく声をかけてくれた。
「橘さん、今は気分どうですか?」
「大丈夫です。私、いつからここに?」
「今朝、この病院に救急搬送されてきました。会社の方たちもすごく心配されていたそうで、ひとり付き添いの方がいらっしゃってます。えーっと、すみません、その方のお名前を忘れてしまって。今外にいらっしゃるみたいなので、橘さんが目が覚めたとお伝えしてきますね。」
看護師は点滴の袋を交換すると、病室を出ていった。
   先輩に迷惑をかけてしまったと申し訳ない気持ちでいると、しばらくして病室に入ってきたのは、私と一夜を過ごした名前のわからないあの男だった。いや、名前はきっと、

倉田タクマ

「やっと俺の名前がわかったね」
倉田はそう言って、ベッドに横たわったままの私を見下ろした。
   私はもう驚きもしなかった。これは一生かけても償いきれない罪を犯した私への復讐なのだと思った。でも、甘んじて受け入れる覚悟もない私は、また昔のように、逃げることだけを考えていた。
   爛れた胸の痣が痛みを取り戻す。
   倉田は笑みを浮かべて、私に顔を近づけ囁いた。
「お前は俺のものだ」
倉田が私に寄せる感情はもはや恋慕なんかじゃない。ただただ妄執に取り憑かれているだけだと思った。
   倉田は獣のように私に口付ける。喰われる感覚に陥りながら、私はあえてその舌を受け入れた。そして、隙を与えたところで、私は素早く左腕から点滴の針を抜き取り倉田の首元に刺し込んだ。
「あ゛ぁ!」
倉田が痛みに悶えている間に私は起き上がり、病室から走って逃げた。廊下をひたすら走る。白い床に、私の左腕から垂れる血液が小さな血痕を残していった。

   走って、走って、走って、走る

   廊下が終わりなく続くように感じた。後ろから倉田の声が迫ってくる。私は開かれた非常階段を見つけると、駆け下りた。

   下へ、下へ、下へ、下へ。

   すると後ろからけたたましい足音が鳴り響いた。階段を駆け下りる私に追いついた倉田は、後ろから私の背中を蹴った。私はバランスを崩し、前のめりに落ちていく。それはスローモーション再生のようだった。私はまるで宙に浮かぶように、ゆっくりゆっくり落ち続ける。

   気づけば私はモノクロの世界に居た。
そこは再び高校の教室だった。
「焼きそばパン買ってくるわー!」
3年2組の教室からヨースケくんが出ていくところだった。
   今さら世界の不確かな境界なんてどうでもよかった。私は急いでヨースケくんを追いかけた。このまま彼はどこに行くのか?絶対に見逃してはならないと思った。

   ヨースケくんは鼻歌を歌いながら廊下を進み、階段を降りていった。私もその後ろをついて行くと、階段の踊り場に背の高い男が立っていた。茶髪でマッシュボブ、眼鏡をかけているが、こんなに近くから見ても顔がはっきりしない。白いTシャツにジーパン、黄色い大きなリュック。モノクロの世界の中で、その男の持つ彩りは異様に目立っていた。
   私は息を呑んだ。望美が言っていた男だとすぐにわかった。
   私が唖然としていると、誰かに肩を叩かれた。振り返ると、倉田がそこにいた。首元が血で汚れ、ますます蒼白な顔をしていた。
   倉田は私を睨みつけながら、いつもとは違う低く太い声でこう言った。
「ヌワイエ様。お導きを。」
すると、踊り場に立つ男が何やらブツブツと呟いた。それを合図に、モノクロの世界が大きく歪んだ。私は平衡感覚を失い、立っていられなかった。
   踊り場の壁に大きな黒い穴が開いた。モノクロの世界ごと、私たちはその穴に吸い込まれていった。

   

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