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金沢まち歩きの「おもてなし」 - ミステリー編

はじめに

金沢は、日本の歴史と文化が息づく美しい街です。風光明媚な景観、豪華な城郭、そして情緒あふれる庭園など、訪れる者を魅了してやみません。しかし、金沢の魅力はその表面的な美しさだけではなく、その背後に隠された数々の謎や伝説にあります。これらのミステリーを紐解くことで、金沢の本当の姿が見えてくるのです。

このエッセイでは、金沢まち歩きの「おもてなし」 - ミステリー編 - と題して、兼六園や金沢城にまつわる不思議な話や、隠された歴史を四章に分けてご紹介します。第一章では、兼六園の謎に迫り、第二章では金沢城の秘密を探ります。第三章では石垣に刻まれた不思議な印について解説し、第四章では加賀藩の巧妙な防衛策を取り上げます。

第一章:兼六園の謎に迫る

兼六園は、その美しさだけでなく、隠された秘密や謎に満ちた場所です。その一つに、台風や地震にもびくともしない石積みがあります。一見無造作に積まれているように見える石積みですが、「蛇・蛙・なめくじ」の三つの自然石が互いにけん制しあっているため、微動だにしないという俗説があります。これらの石が三すくみの関係であるため、兼六園の石積みは揺るぎないのです。

また、兼六園内にある「滝の白糸」の像も興味深い謎を秘めています。泉鏡花が1894年に発表した小説『義血狭血』で描かれた悲劇的な事件を彷彿とさせる像です。滝の白糸は、兼六園での興行を終えた後に暴漢に襲われ、大切なお金を奪われました。その後、偶然にも老夫婦を刺してしまったという悲話が秘められています。兼六園の一角に立つ像は、この悲劇を象徴しているのです。

第二章:金沢城の秘密

金沢城には、他のお城には見られない独特な特徴がいくつかあります。まず、金沢城の屋根瓦が鉛でできている理由です。これは、幕府からの軍備増強の警戒を避けるため、いざという時に弾薬に転用できるようにという策略でした。外様の大藩であった加賀藩は、幕府の目をそらすためにこのような工夫を凝らしていたのです。

また、金沢城には天守閣がありません。利家の時代には天守があったという記録もありますが、1602年に落雷で焼失し、その後天守は再建されませんでした。これは、徳川の世になり、天守の存在が不要となったためとされています。加賀藩は、幕府からの警戒を避けるため、天守を再建しなかったのです。

第三章:石垣の謎

金沢城の石垣には、数百種類の刻印が残されています。これらの刻印は、一体誰が何のために刻んだのか、未だにはっきりしていません。名古屋城や大阪城などの他の城にも同様の刻印が見られますが、それらは石切場を表す印や職人集団のマークであると考えられています。しかし、金沢城の場合には、この説が当てはまりません。種類の多さや不揃いな配置から、金沢城の石垣は「石垣の博物館」とも呼ばれ、その謎は専門家たちを悩ませ続けています。

第四章:加賀藩の隠れた強さ

加賀藩は、幕府に対して巧妙な策略を用いていました。その一つが、堀の水深に関する偽りの申告です。実際には深さ5メートル以上あった堀を、1.5メートルと申告して幕府を安心させたのです。また、金沢城を取り囲むように配置された惣構跡は、防衛ラインとして重要な役割を果たしていました。

1599年、藩祖前田利家が亡くなった直後、前田利長による家康暗殺計画の流言が広がりましたが、利長は母を人質として江戸に送り、窮地を脱しました。金沢城の城下町には、こうした歴史的な背景が刻まれており、兼六園や金沢城の美しさだけでなく、その背後にある謎や秘密を感じることができます。

おわりに

金沢まち歩きの「おもてなし」は、その美しい景観と歴史だけでなく、数々のミステリーによっても彩られています。兼六園や金沢城に隠された秘密を解き明かす旅は、訪れる人々にとって一層魅力的なものとなるでしょう。歴史と謎が織り成す金沢の街は、まさに探求心をくすぐるミステリーツアーの舞台です。

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