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人は人〜自由・期待・欲望の話〜

自由に描きなさい


自由、それは心のままであるということ。

何かを成すとき、そこに障害がないこと。


カントの言うところによる自由は自律と同義で、自分で立てた規範に従って行動すること。私が肯定的に使う「自由」とは、カントの言うそれのことです。


藝大の入試とかで指定される「自由に描きなさい」も、さすがに多分「規範を自分で用意しなさい」の意。
ただ、美大受験の準備期以前に求められた「自由に描きなさい」という課題の9割程度は、先に述べた「自由」のどれでもなかったと思う。


Noteを読んでいる方なら、読書感想文なんかで置き換えたほうがわかりやすいのでしょうか。子供時代に課せられた“自由に”という指示のだいたいは嘘でしたよね。指示がある時点でそれはそうなるのですけど…。


サルトルの話す「人間は本来自由」みたいな話は、神様に出会えたら助かりそうな心を見たときに思い出す。「自由は重いですよね」と。

心そのままを評価されにいくなんて、相手の心を好きで信頼できなければ自傷になりかねない。他者の期待を完全に無視して動けば、「いらない人」になる。成すべきことに対して障害がないとすれば、それはもう成されていることだ。社会道徳を実践するかしないか自分で決めて動く人間は、社会にとっての脅威でもあるだろう。

私は神様じゃないから、人が心のままに動く世界は恐ろしい。
何かを成すとき、そこに障害をなくしてあげられるわけもない。
この世で突然一方的に「あなたの律で動いて下さい」を期待するのは不適当。
人様の心そのものにかかわる行動規範を提案して、「やれ」と話すこともどうかと思う。
人間にできるのは唆しだけ、多分どこまでもそう。

誰も私の人生に責任を持てない、あなたの人生に私は責任を持てない。
小学校から大学までの先生からいただいた言葉の中で一番ためになっているのは、「誰の言うことも信じるな」です。幼稚園の先生からいただいた言葉の中で一番好きなのは「悪い子にもサンタクロースは来る」。



言ったら「そうなんだ」と思うこと、違うな〜と思ったとき違うままにしておけない流れ、相手を人ではないものにしておかなければやっていけない、みたいな現象がヤバいな〜と常々思っているのですけど、他人は、あなたが他人の言葉によって変わる程度には変わるし、変わらない程度には変わらない。
他人の言葉、どういう意図で発された言葉なのか独自理解していかないと、現世ってひたすら悪意と拷問器具まみれで辛くないですか…?


子供時代に課された(※1)「自由に描きなさい、やりなさい」のだいたいが嘘だったということについて。人は誰も神様にならなくていいという話について、大人も「自由」の定義や取り扱いに困っていることについて。期待をかけられるというのがどういうことか、期待をするというのがどういうことか、期待との接し方について、などを最近観た映画を通して考えました。

結論だけ先に書きますが、「人間ってべつに神様じゃないので、人に好かれても嫌われても期待に応えても応えなくても死ななくて大丈夫だし生きなくてもOK。(わたしは死のシステムそのものが嫌いなので、「誰も死なないでほしいな〜」と思いながら暮らしているし、人から無限に好かれ倒したいけど)元気が一番ですが、自覚的に搾取されたがっている人以外から自分の元気のために継続的な搾取をやると、この世の好意の循環から外れるのでさみしがり屋はやめたほうがいいよ」みたいな感じです。


※1


「描いて下さい」と話す側に回るとき、指導に回るタイミングをいただいたとき、私は「自由」みたいな課題設定を世間一般で話されている「心のまま」というようには扱いきれない。「そんなものはない」と思っているし、「自由に描いてね」って話したら、それは自分が惨殺されている様子を描かれたとしても、人生賭けて真剣に見ないといけない気がしている。ていうか、その場合はその人のご家庭で何かマズいことが起きてないか。とか色々考えなければならんし。自由って切実だから、評価も指導もやりようがない。自由の解釈に対して前提の共有するための説明を入れていたらそれで1コマ終わる。「自由課題」に相当するものを設定するときは、だいたい「誰に宛てて、何を伝えたいか決めて描いて下さい。自分宛でもOKだし、非生物宛でもOK。犯罪に関わる心は受け止めきれないのでやめておいていただけると助かります。伝え方の動線設計やモチーフの選定について、私がわかる・考えつく範囲で言及します」みたいな課題設定をする。

なぜだれも私のことを神だなんて思ってないのに、こんなにも「神じゃないので…」って話しまくるかと言うと、私に限らず今はとくに、誰でも、望む望まないはおいといてちょっと気を抜くとすぐ神にされたり、他人を神だと思い込むからです。
最初からずっと「私は魔女です」と明示している私でさえ、例外にはなれない。

自由ってなんだと思いますか?
「心のまま」なら、社会的動物にそんなことありえないと思っています。
「障害がないこと」もありえないと思っています。だって社会的動物ですよ。
私にとっての「自由」とは、自分の設定した幸福に対して、自分がどれぐらい誠実に動けたかで拡張できたり、縮小したりする概念です。自由を0か100かで捉えると沼。自由は伸び縮みする。愛が脱ぎ着できるみたいに。※身体に染みてるともうがんばって忘れたふりしたり細胞の入れ替わり待ちしないと無理なんですけど、細胞、入れ替わるよ。

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深刻すぎる話に読まれそうなので(あやとりや執拗な描き込みと一緒で“趣味”なんですけど)、先に説明します。わたしは「書く」とか「読む」ことそのものに悦楽があるタイプなので、書きたいときに書けないことはとても苦しいけど、描いたり書いたりしている限りたいていは気分最高です。読んだ方から私についてどう思われたいかというと「なんか書きたい人なのだな」と思われたいし、どう作用したいかというと、この世の人間が疲弊しきらない感じにしたい。
金をとる理由ですが、「役に立つから」とかではなく、脳の見物料。あなたの脳も別の社会活動と紐付けられる形でそのまんま無料でおいてあって私が既に読んでいるなら無料でいいのだけど。
標準語で喋っている部分がほとんどない文章については、標準語しか標準語じゃないと思っている人はたぶんそもそも読まないので無料で良いです。



“子供らしい”ものを描きなさい



“子供らしい”とは、一般的に、“あなたが愛されているに違いないと確信できて、たわいなく、脅かさないもの”の言い換え表現として使われていませんでしょうか。
「子供らしい」ものというのは私にとって、「子供がつくったもの」であって、それ以上でも以下でもありません。

子供時代、大人からかけられるありとあらゆる期待については、なんとなく理解していたように思います。こういうふうにして・なってほしいのだろうな、を感じ取って自分の訓練の道具に使ったりすることは成長のきっかけとして使えますね。でも、期待に応えた(期待を叶えてあげた)からといって、それがしたいことのすべて、生きることの本懐だと捉えられたら困るよね、大人側も子供側も。

子供側や大人同士での期待を受けて「…子供に適切な試練と…適切な恵みを与え…絶対に正しく導かなくては…」を感じすぎた結果として、人の身で神様になろうとする保護者や先生も「結構いた」気がする。
なろうとしてしまうともう、ちゃんと拝んでもらえないと気が済まなくなったり、無限に赦したり、無限に期待に応えなければならなくなったりするので、大変なのではないかと思います。
※そんな人はわたしの妄想でしか存在しない場合→なによりです




生身で神様やらなくてOK


大人だからといって、子供相手に神様をやろうとしなくてもよいのではないかと思う。やってみてもいいとは思うけど、大変ではなかろうか。人間をやっている保護者・先生に対して初手から「神様じゃないからバカにしていじめよう」みたいなことを思う子供っているのだろうか。いるか…いるから神様にならなくちゃと思う大人もいるのか…。
不完全に神をやっている大人に対して「たぶん神だから言うことを聞かなくては」と子供が勘違いして、大人が想像できる範囲の人間性しか子供の中に育たないこと(未来がふさがるということ)や、成長の過程で「神じゃなかったのですね、騙されました」とか言って暴れられることって神を騙る上でかなりの懸念だと思うのですが、そうでもないのでしょうか。

親や先生に回るタイミングの人にも心とか感情とか体調がある。人間だからミスもする。ないなら、しないなら、神様のふりだってやってみればいいと思うのだけど…あるならやめたほうがいいのではないかと、私は考えている。大人をやることと、神様になることは明確に違うと思うのだけど、あらゆる人が致命傷を受け続けている程度にはそこが混同されているのではないでしょうか。みんながんばっているだけなのにどうしてこんなことに。

“代弁者”は…私は“代弁者”もやめたほうがいいと思っています。ちなみに私は神様でも代弁者でもないので、これはあくまでも私の考えであって、みなさんにとっての真理ではありません。わたしは「あなたも神様、全員神様」って話すことがありますけど、あれは「全員人間です」がどうしてもうまく飲み込めない方向けの糖衣Aです。

乗り越えがたい困難に人生の袋小路で直面したとき、人が無自覚なまま神をやろうとして鬼だの物の怪だのにならず、死にもせず、人としてやっていくためには、目に見えないちゃんとした、生も死も関係ないところにいる、絶対に動かない神様を真剣に信じたり感じたりしたほうがいいのではないかな…。と思うことはよくある。人が人を治めようとするとろくなことにならない。

それでやっていこうと思ったら、もうどうしても柱が必要なのですか?埋めるタイプの…。というイヤ~な気持ちになることが最近よく起こっている。本当はそんなことないだろ。鬼滅の刃って、人気が出てから話の筋が変わったのかどうか、そうだとしたらどのように…などの部分がかなり気になっています。

ル・グインの「風の十二方位」という文庫に収録された「オメラスから歩み去る人々」という短編のことはよく思い出す。
オメラスという幸福な理想郷がありました。そこではだれも飢えたり、苦しんだりしておりません。ただひとりを除いて。窓のない部屋に閉じ込められた、誰からも顧みられることのない子供。その子供が暗い部屋でただ命をやることで、自分たちの幸福が成り立っていることを、オメラスの人々は皆知っている。

……私は私が神様じゃないことを知っているし、あなたが神様じゃないことも知っている。人同士で殺し合ってしまえることも、人の手で人が助かることも(私自身が無数の意志や偶然、気まぐれによって助けられてきたから)知っている。


「神様のいない世界で暮らすなら、あなたが自分で創ったルールの中で、幸福を追求し続けられるサイクルの中にいることだけが、あなたを幸福な瞬間に連れて行ってくれる」って私は思うのですけど、やっぱりみなさんがどうお考えになるのかまではわからない。

たぶん幸福の種類が少ないんだよな、欲望もそうなんだけど、増やすしかない。
「飢えないけど不幸、飢えているけど幸福。モテてるけど不幸、モテないけど幸福。寝ているけど不幸、寝てないけど幸福」みたいなことがたしかに存在するって事実は、事実のままもう少し周知されるべきだと思う。





「クレヨンしんちゃん激突!ラクガキングダムとほぼ4人の勇者」~やっちゃえば~


(2020年公開作/Netflixで視聴)

タイトル画含めて「久野瑶子さんだ」って部分の仕事がやっぱりかっこいい!
未見の人にはわかりづらいかもしれない話でネタバレもあるので、
興味のある方は観てみてくださいね。


millnaさんが衝撃を受けていたのを見聞きして、観ました。
記事があるので気になる方はぜひどうぞ(https://note.com/mi_te_yo/n/n1dcc0ee75f9c

「おまえにとって私は奴隷なのか神様なのか人なのかはっきりしてくれ、二重音声で喋るな。あなたたちは一体何なのですか。」みたいな図式にハマったことある人からしたら面白いのじゃないかな。

クレヨンしんちゃんってもともとかなり全てをめった刺してバカにしにいくところがあるのですけど(武士、宝塚、昭和…)今回はちょっと切実すぎる感じがして恐ろしかった。何がといえば、しんちゃんとかではなく、この世


怖かった。期待に応えることを考え続けた人間が、何もしない人間たちが産んだ善意地獄の中で無限に増え続ける要求に耐えられなくなって上げた断末魔。こういう話最近多いねって友達と話していたけど、そりゃそうだよな。声を上げろ、私たちは正しく要求しなければならない。本当にそうでしょうか。

「クレヨンしんちゃん」がクレヨンを使う話だけあって、すごく“やっている”なと思いました。わたしにとってはとても良い作品でした。


作中で提示されているように、袋小路に追い込まれて、縋る神もいない場合、どういうひどい状況にいたとしても、もう“やっちゃえやっちゃえやっちゃえば♪”(作中でみんなが突然それを歌い始めて街にめちゃくちゃラクガキをするターンがある)をやっちゃう、やっていく、やるしかないんですよね、もう…本当に…。祭りを…パーティを…フェスを…。
※フェスによって古い夢=ひとつの都市のようなもの をめちゃくちゃにされたくない場合、されたくないサイドが神様を用意しないとうまくいかないと思う。


期待されて(欲望を持たれて)、応えて、喜んでもらえることって気持ちいいですよね。自分の期待が叶えられたいのであれば、そういうやりとりはどうしたって必須ですし。
ただ、「その人がそこに存在すること」以外の期待に応えることって、誠実なサービスであって“やっちゃえ”ではないよなと思う。

作品から受け取ったものとして、

特に気になったこと、私の見た結論を3つピックして話します。


1.力あるものへの期待が膨れ上がりすぎ問題

2.欲望の主人になれ

3.“勇者”の正体


ほかに「都市のための人なのか、人のための都市なのか」みたいな話もあるのですけど、
それについて私が話すべきことはたぶんこれだけ。
そこに生きる個人それぞれのために都市があるべき。人にしか人のための都市を夢見ることはできないのだから。


1 力あるものへの期待が膨れ上がりすぎ問題


あなたはわれらを守ってくれる人

最も美しく最も強く

最もイヤミなく

やさしくできる おかた


あなたはわれらをよろこばせてくれる人

最も背が高く
最も痩せているが

健康的な痩せ方さ

最も足が速く
最も肌にツヤがある

最もユーモアがあって

いばらない


オシャレで
年齢をごまかさない

眼鏡の似合う
 おかた~

目がいいから眼鏡は…

(作中でラクガキングダムの民衆たちが歌っていたものを引用しています)

(※タイトル見つからないのですがもし知っている人がいたら教えて…)

この歌を紹介したら「ルッキズムにまみれている」と指摘した人がいたけれど、私はそれが要旨だとは考えていません。ルッキズム=(身体的に魅力的でないと考えられる人々を差別的に扱うこと。また身体的に魅力があると考えられる人々を崇め奉ること。差別と崇拝は同じ。)を表現したいのであれば、作中で“身体的に魅力的な存在”として描かれているわけではないしんちゃんやぶりぶりざえもんが勇者として崇められる理由はないでしょう。わたしはこれを「非力な民として生きる者のなかで際限なく膨れ上がる、力ある(ように見える)者は完璧であるべきという期待」を表現しようとしているのだと考えました。作中後半、カスカベやラクガキングダムを救う力を持たない大人たちが、しんちゃんたちに向かって「なんでもっとこうしなかったんだ」「おまえのせいだ」などと集団で話している様子でもそれは表現されていたように思います。

さて、「クレヨンしんちゃん」シリーズの映画は「力ある者」とみなされていますか?
力ある者は、無力な人々とは違って「完璧」でなければならないのでしょうか。


意図的に用意されていたのかな、という、人間がツッコみたくなりたそうな「完璧じゃないように見えた点」について言及します。

●完璧じゃないように見えた点

*設計編

・水でラクガキは溶ける、が、食品は摂取できる問題

・ラクガキの大きさと具現化するものの大きさの関係テキトーすぎるのでは問題

→初見の時点では「雑すぎるだろ」と受け取ったのですけれど、いや、もっと別のルールが走っているだろ。と気づいた。別のルール→!フィクション

●フィクション、人の心に自然科学を求めてどうする

説明がつかない・ありえないで言えば「そもそもラクガキングダムなんてものはないし、ラクガキは命を持って動き始めたりしませんし、5歳児のサイズ感はこうではないし、豚は喋らない」みたいな話になってくる。絵はスケッチブックに描くもの、描いたものは大きさなりの働きをするもの、というのも用意された思い込みなので、しんちゃんは「大人たちに用意されたスケッチブックがないから、絵を描けない」というところには追い込まれず、壁やら床やらに絵を描き始めたりする。となると、ラクガキングダムはあるし、ラクガキは命を持って動き始めるし、5歳児はあれだし、豚は喋るのでしょう。わたしが知らなかっただけで。

*勇者の人格編

・しんちゃん→シンプル非常識。いやらしいクソ野郎。

・ぶりぶりざえもん→カスの裏切り者。最低の豚。

・ニセななこ→有能だけどこわい。

・パンツ→子供を頼りまくるな。

●生き物が完璧なわけない


生き物が完璧なわけない。
セクハラはセクハラとして、された側がセクハラと認定した瞬間に裁かれるべき。わいせつ物陳列罪についてもそう。子供が加害者なら教育によって「損をします」と教えるべき、教育でどうにもならないなら治療、治療でどうにもならないなら訴訟で「損をします。それは本当に損をしてでもやりたい行動でしたか」とわかっていただく必要がある。生き物は完璧ではない上、セクハラとかって明確に加害だから手順踏まずに自分を守るため、初手で暴力になることも当然仕方ないが。セクハラも「やっちまったもんはしょうがない」扱いにされているだろ、被害者が初手で正当な手続きを踏めないことだけ問題にしないで下さい。加害サイドのほうが問題です。


●期待との接し方

この作品を受け取った子供たちが何かを創るとき、きっと無数に「こうじゃない」「こうしたほうがいい」っていう期待とか文句がついてまわるだろうけど、「そうだな〜」と思う期待、叶えたい期待、自分の幸福に利用できる期待以外のものはテキトーに無視して“やっちゃう”しかないのではなかろうか。
というか人間は結局“やっちゃっている”ものなので、あんまり自分が我慢していると思い込むと(我慢しすぎると)暴走トラックになれる。
「無力な人々」も“やっちゃって”いませんか?勇者への無責任な期待と「自分で助ける」という選択の放棄を…。「楽」を選んで「できないって話をすることによる責任転嫁」を…観客席からヤジを飛ばすというお客様様様ムーブを…。


●「ヤジ」考

わたしは観客席からヤジが出るのは「仕方のないこと」だと思っています。この文章自体既にヤジでしかない可能性があるからです。それでも書きたかった。書きたかったのでやっちゃった。制作サイドから「人の作ったもんに触発されて書いたもんとか、感想で金取るな」みたいな声をいただいたらちゃんと対応しようと思っています。人から影響を受けて動くということがどういうことか、わかっている人たちの作った映画だと思うので、多分来ないとは思うけど。

自分の話や共感できる他人の話が「感想」や「批判」として「正当」だと考えると誰でもすぐ人殴りマシン(人はもれなく人殴りマシンです)から大量殺人鬼になれる、なっている。ヤジかどうか決められるのは槍玉に上げられた主体だけかなと思います。考えても考えてもヤジの可能性をあるものを飛ばしまくって生きるしかない。何も考えずに生きろ、という話ではないよ。薔薇の花をただ贈ろうとしたことが加害と見做される場合はあります。誰もにとって絶対不快じゃないもの、状況なんてこの世にあるわけない。ヤジを飛ばすぐらいなら死にます、動きませんもヤジ。
もうどうしようもない、神が正義を規定しない世界を生きるのであれば、俺は俺の覇道を、お前はお前の覇道を爆走して死なないようにやっていくしかない。生きている限り全員何かしらを“やっちゃって”いるんですから
。

ここまで大量の文章を読んでくれる人が、私個人の見た事実に耐えられず私を殺しにくるわけないだろ…と考えるぐらい私は人に期待しているので、報われたいな。あなたの善意も、あなたの生も、報われる瞬間が多くありますように。


●ヤジ、問題

で、問題なのは勇者をやっている中で不快なヤジを飛ばされた側が妥当な反応をしたときのデメリットが多すぎること。「死ね」と言われたので「死ね」と返す、「おまえは社会にいらない」と話されたので「おまえは社会にいらない」と返す、1に1を返すようなものでさえ、無自覚に“やっちゃった”ひとたちは自分自身を棚に上げて1を「やった」「力のある」人を「悪逆な・大人気ない・不完全な・力の足りない」人として見做して、自分たちの非力からくる罪悪を見ないために、すべてをなすりつけて勇者を潰しにいって、次の救世主を待ち続けてしまうことかなあと思う。「先に“やっちゃって”はいないです、反応しているだけだから私は悪くない」みたいな蛸壷に入るのも同じことで、問題。


その構造自体がなくならないとしても、全員が力持ちだという視点に立って常に「やる」ことを意識した方がこの世の幸福の総量自体は増えるのではないでしょうか。

失敗、OK。反省して次に生かします。という方向で考える人が1人でも多くなっていかないと、少子化だし、少なくなり続けるリターンに対して膨れ上がる期待、責任を誰も負いたくないでしょう。

期待に応えられなかった、ひとりひとりを取りこぼしたってことに真剣に苦しむような人が、そこにプラスして1人1人から「苦しめ」とか「消滅しろ」って期待の投石を無視できるわけがないので、責任者にサイコパス多くなるのは「それはそう」なんだと思います。だって私もみんなも「自分のほうがこれはわかる」って思い込みベースで“やっちゃう”んだもん。“やっちゃった”ぶん以上に、ちゃんと誰かの助けになれたらいいなと思いながら暮らしている。

(少子化もそもそも「子育てに失敗してはいけない」みたいな通念があるのに「成功」の例や「成功」のイメージは少なく「失敗」のイメージが無量大数なことが原因では。挑戦する人が失敗しやすいのは当たり前だし、何回失敗したって生きていていいに決まっているだろ。「チャンスの女神は前髪しかない」みたいなこと言う人もいるけど、そんな変な髪型している人はわたしの神様じゃないし、大丈夫です。自身の欲望に挑戦する意志を捨てない努力家には何度だってチャンスがあるべきだと私は思う。私がそう考えるのだから、そういう風に考える人は無数にいるはず。)


●「期待」の取り扱い結論

人として幸福に生き、人を人として扱うためには、あらゆる期待を無視して、誰からも期待をかけられることのない人生をやるべきなのだろうか?
→NO

期待は自身の幸福を叶えるために都合よく使い、そのためにやっていける程度の期待値を自身に用意して期待されていき、応えられる範囲で応えるのがベスト。自分の望みとはかけはなれた、応えられない期待をかけられたときにNOを言えるようにしておく、NOをやったとき、それを許さない世界では息をしないことのほうが重要。世界は無数にあるので、鍵=知識さえ手に入れればどこかしらで絶対に息はできると私は思います。鍵を落としまくっていくしかない。

「他者にとって“使えない”ものは無視されて当たり前、だが期待されたら異常な声が四方八方から聞こえるところに放り込まれる」という事実は…本当に相性や場所の問題です。使える使えない、応える応えないについて気にしすぎる人はあまり気にしすぎて生け贄にならないようにしたほうがいいと思います。
(「人にとって役に立つかどうか」を気にしなさすぎる人は、この世のバランスをよくするために、気にしてください)




2 欲望の主人になれ


●欲望の的=欲望の主人、物語の主人公

「欲望の的=主人公」っていうのは概ね天才かサイコパスの仕事になっていて、それ以外の人は審査員かお客様どっちかを選んで生きてみてね、みたいな感じがある。みんなから認められた主人公ならどういった欲望を持っても大丈夫だけれど、そうでない人々の間では三大欲求の「寝・食・性」と申し訳程度に「所属」…の欲求、その派生あたりのものしか欲を持つことが認められていない、そもそも知覚されていない。みたいなことがままある気がする。

三大欲求薄かったり無かったり、他の欲求のほうが強い人が「なんか浮く」とか「なんか死にたい」とか、主人公、神や生贄や奴隷のポジションに追い込まれているイメージ。
これは多分「欲望を持つな、感情を持つな」っていう教育のせい、欲望の種類や状態は無限にあるということが認知されてないせいだと思う。

自分で自分の動くルールを創る=自由であるためには欲が必要なのだけど、欲はそぎ落とす訓練をしすぎているとほんとになにもわからなくなりますよね。欲はあったほうがいいですよ。
このへんについて話している作品だと漫画の「ダンジョン飯」もすばらしかったです。




●村人Aはいない


RPGの主人公がドラゴンを倒せなかったとき、悪の組織に騙されて悪いことをしたとき、窃盗が悪いことだという教育の外で(ドラクエworldなど…)生きてきて、当然のようにあなた=村人Aのタンスから「やくそう」などを盗んでいったとき、魔王討伐を願う村人Aが裁判を起こすのはよいことなのだろうか。

非常識の範囲で力を発揮して暮らす人間を、自分の持つ常識の範囲ではかることに意味はあるのだろうか。それはこの世にとっての利益なのか。←こう悩んだことがある時点でさっさと裁判するか勇者を殴り倒して魔王を倒す旅に出たほうが良いし、相手が本当に勇者だったのかにも精査が必要。そいつ本当に勇者でしたか?ただのコソ泥では?

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