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ぱっとみ真面目な中間管理職の私が、芸人に憧れて芸人を諦めるまでの10年間(9)

今年ディズニーランドと一緒に40歳アニバーサリーを迎える、見た目も平凡、人生も平凡、中間管理職が天職の私が、18歳から28歳まで芸人になりたくてくすぶっていた話。そして、きっぱりあきらめた話。

自分の限界は自分が決めてしまうもの

私は気づいていました。
芸人になれるかなれないかじゃない、なるかならないかだと。
自分が面白いものを貫けるか、あきらめるか。
誰かが面白いと思ってくれるものを提供できるか、できないか。
笑いが起こるまで諦めないかどうかという、生き様こそが芸人だと。

しかし、私はすでに、自分が何を面白いと思っているのかわからなくなっていました。
お笑いのロジックがわからない。作れない。
見た目も普通、話し方も普通、発想も普通。これといった面白エピソードも持っていない。
明らかにいばらの道だとわかっていて、続けていけるのか。

私はあきらめることにしました。

最後のライブ

最後のライブのネタは、動画ネタにしました。
舞台に立つ勇気がもうなかったのもありますが、それよりも、この形のほうが相方と私が二人で楽しめると思ったからです。
北海道のローカルニュース番組の、キャスターとロケリポーターの掛け合いコントでした。
地元の謎の祭りに参加する私(一人二役)が、一心不乱にかかと落としをしているのを、リポーターである相方が必至で止めながらインタビューしようとして、追いつけないまま二人ともフレームアウトしていく。というシーンは、やっていて、ただただ楽しかった。

本当にあきらめたと思っていた

後輩が卒業生への色紙にこう書いてくれました。
「名前を忘れるネタが忘れられません!」
それは確か1年生の時にやったネタだった気がします。撮影記録したものを見てくれたようです。
私が長年一緒にいるはずの相方の名前を忘れてしまい、なんとかして聞き出そうとする、というネタです。
舞台ではウケていなかったと思う。
終盤、すでに怒っている相方に対して、
山手線ゲームの要領で、「山手線ゲーム!自分の苗字!イエーイ! 田中!ハイハイ!」「言わねえよ!?」
というくだりがあり、自分ではここがとても気に入っていました。

やれることは4年間でやりきった。
自分の限界を知ることは、次へ進む力にもきっとなるんだろう。
とても少なかったけど、ウケたことがある。褒められたことがある、という思い出をもって、次に進もう。
この時は、そう思っていました。

しかし、お笑いの火は、見えないところでくすぶっていたのです。


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