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動物福祉は動物園の目的になり得るのか

最近、エンリッチメントやハズバンダリートレーニングが普及することによって業界の中で動物福祉ってやつがかなり普及してきている。

それ自体はとっても良いことだと思う。しかし、一方で動物園で暮らす個体を幸せにすることが「良い動物園」という図式が成立しつつある気がしている。

つまり、動物福祉に配慮すること自体が、動物園の目的になりつつあるのではないかと感じることがあるのだ。

そもそも。
動物福祉とは、
人間が動物を利用する場合、動物に対して心理的、肉体的に最低限の苦痛しか与えないようにすること
と、定義されている。

この「人間が動物を利用する場合」という文言がポイントになる。

もう少し動物福祉についてざっくり説明すると。

例えば、牛肉を食べたいので子牛を飼って育てることにする。その時に、どーせ最後には殺して食べるんだからといってぞんざいに扱うのではなく、生きている間はちゃんとお世話しましょうね。というのが動物福祉の考え方だ。

つまり、動物福祉の考え方では、食肉や実験、展示、飼育などで、人間が動物を利用することを全面的に否定してはいない。

ただし、生きている限りは「動物が精神的、肉体的に十分健康で幸福であり、環境に調和していること」、また殺す際にも「可能な限り苦痛を与えないこと」というのが、動物福祉の考え方の基本だ。

ここでひとつ疑問が生まれる。
それは、

人間が動物を利用する「目的」がなければ、動物福祉はそもそも発生しなくはないか?

ということだ。

どういうことかというとだな。

さっきの肉牛で説明すると、牛肉を食べるぞー!という意気込みで子牛から育てて、それはそれは美味しい牛肉に仕上げることにした。
ここでは、人間が子牛を育てるという行為には、美味しい牛肉を食べるという「目的」が発生している。

だって、美味しい牛肉を食べずに、ジャガイモで大丈夫であれば、子牛を飼う必要はないもんね。

なので、美味しい牛肉を食べるという動物を利用する目的がなければ、そもそも子牛を飼う必要はないし、ちゃんとお世話する=肉牛にされる子牛の福祉は発生しないはずなんだよね。

ぼくはなにが言いたいのかというとだな。

1.動物を飼育するのには、必ずなにか目的があるはず。
2.動物福祉はあくまで動物を飼育する上で配慮しなくてはならないものである。
3.したがって、動物福祉という行為そのものが動物を飼育する目的にはなりえないじゃない?

ってことだ。

動物園で考えてみるに動物園が動物を利用する「目的」とは、なんだろう。

なぜ、自然から野生動物を捕まえてきて、あるいは、自家繁殖させてまで公開しているのか。

「えーっと、それは動物園の4つの目的があってですね。」みたいな「動物園の目的論」はあるけれど、ぼくにはそれって欧米で動物園への風当たりが強いからサバイブするために生み出されたものにしか見えない。

じゃー、君が考える動物園の目的ってなんだよ!って聞かれると言葉に詰まるのだけれど。
でも、動物園における飼育個体への福祉的配慮は動物園の目的にはならないはずだ。

もちろん、動物園動物の福祉が向上することは、とても良いことだし、どんどんやるべきことだと思う。

できないことはたくさんあるけど、自分だって飼育係として与えられた条件の中で、担当動物の幸せを考えて飼育している。

だけど、やっぱり動物園とはなにかということを考えると、動物福祉はあくまで副次的なものであり、動物園の本質とはまた別の話だと思う。

目的なくして、動物福祉は成立しない、はずだ。

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