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言語化

好きなことをひたすらに文章に起こすのがたまらなく好きだ。
そのことに気付いたのはつい最近のことである。
夏休みの宿題で読書感想文が一番苦手なタイプだったのであの頃の私が今こうしてスマホやノートに向かって書いてる姿を見ると軽くどころかドン引きするだろう。
アナログ人間なのでこうした電子機器より分厚い無地の本に書く方が雰囲気も出て好きだ。筆が乗るとはまさにこの事なのだろうなと思うぐらいごりごり書いている。読み返した時に小さな文字でびっしりと書いてるのを見るとその体験も書いてる最中も本当に好きで楽しかったんだろうなと思って胸がぎゅーっとなる。

嫌なことを文章に起こすのは苦手だと気付いたのもつい最近だ。嫌なことを書こうとするとすごく気持ちが悪くなる。
だからといって何もしないでいると潰れてしまうから
おーんとかあぁぁ゛〜〜〜とか書いてる。
読み返した時何も思い出せないけど大変やったんやろうなぁ...と変な顔になる。

じゃあ好きなことを喋るのは得意か嫌な事を喋るのは苦手かと言うと違う。逆なのだ。
好きなことを喋ろうとすると言葉が喉につっかえて出てこない。手をぶんぶん振ることしかできない。
嫌な事は、もう、すごい。堰を切ったようにとはこのことなのだろうなと自分自身思う。誰にも見せたくない。だから、お世話になってるカウンセラーさんとか車を運転中に1人でベラベラ喋ってる。

なぜ私が様々な方法でこんなに言葉を尽くすことで生きることを実感しようとするのかというと、物心ついた頃から希死念慮が強かった事が要因だと思う。思うというかそうだ。生きていてよかった。と日々を過ごす為に本をすごく読み、心を動かされた文章を食い入るように眺めていた時期がある。そしてそれを生きるための活力にしていたのだ。

インプットからアウトプットに変わったけどやってることは変わらない。これは私の心臓が止まるその時まで続けるんだろう。


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