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Cranberry, 1984とMelody Lane

Cranberry, 1984
ボーカルの岩渕君が両親が出会った1984年にあてた曲と聞いて自分自身の両親に思いを馳せながら聞く曲。
私の母は父との出会いについて語る時
「共通の知人を通して喫茶店で出会って、その時机の下に五十円玉が落ちてたからご縁があるんだねーって盛り上がってそのまま結婚した。とんだ誤算だった。」
これがいつもの流れだった。

私が仕事でキャパオーバーを起こして休職した際会社との間に入ってくれたのが父だった。
如何に自分がひとつの会社で勤め上げてきたかの身の上話を延々として恥ずかしいからやめてほしいんだけどな...と思っていると
「復帰する時にあまり無理をさせてはいけないと思っている」と本題に入った
「こちらとしては舞鶴さんの要望に従おうと思ってますので」という工場長に
「人にはどうしても怠け癖があるからそれでダメになったんだと思う」という父
昔気質だからしょうがないとはいえ傷付いた
「直属の上司に理解してもらえないという恐怖心から相談出来なかったんだと思います。」と私の気持ちに寄り添う工場長に
「こんなに休んでたら仕事も忘れてるから迷惑かけると思う」

とそこで初めて工場長の顔を見て満面の笑みで言った。

「...覚えてるはずですよ」にやっと笑いながら言う工場長
「いやいや、それがなかなか忘れとったりするんよ。お前どんくらいならいけそうか」
「あ、えっと、週3の午前中からがいいです」
「分かった」

工場長が帰った後に体制を整えながら父は言った
「へぇ〜、姉ちゃんこんなんでどうですかね」

...お見事です。

この瞬間から父の存在が私の中で変わり始めた。

「私」からすると父の言うことは絶対だった。
私の気持ちより父の発言一つが優先すべきだと思い込んでいた。たとえそれがどんなに冗談であっても。
「親父の隠し財産」と笑いながら部屋の隅からカップラーメンを取り出し私に手渡してくれた。
たくさん父と「話し合い」と「おはなし」をするようになった。
「私が『つくり上げた』家父長制の父」が消えていった。

何とか仕事に行ってたある日、私の言い間違いで上司を大激怒させてしまい目の前で怒鳴られてしまった。
今まではそんな事があっても即座に謝り、切り替えて仕事をしていたが復職したてでそれが出来ず泣いてしまった。しかも新入社員の子の前で。(その時すぐに謝ってくれたから今はもう気にしてないぜ。あの時は泣いてごめんな。上司)
泣きながら「病気持ちをサンドバックにするのは周りもしょうがないってなるからちょうど良いもんね」と強い言葉でやさぐれる私にそれまで黙って聞いていた母が
「そんな風に怒鳴られたら嫌な気持ちになるよね。もう何も話したくないって思うよね。でもね、周りの子達はそれを見てざまあみろなんて絶対絶対思ってないよ」

そんな言葉をかけてもらえるなんて思ってもなかった。

幼い頃母は私が泣き叫んでも仏前に正座させて読経をさせる人だった。信仰している宗教もこの宗派以外は絶対にだめというような厳しいもので、それが嫌で嫌でたまらなかった。何でもかんでも「ご本尊様」だった。
母親信仰が気持ち悪いと思ってる割に母に言って欲しい言葉を待っている自分がいる。でもそれは来ないと思っていた。
その時中学の頃不登校になった私に「男の先生に嫌がらせとかされてたらすぐに言いなさいよ」と2人っきりになった時言ってくれたのを思い出した。

「私が『つくり上げた』宗教にのめり込む母」が消えていった。

別の日父にこう言われる。
「姉ちゃんは1人で抱え込みすぎなんよ。周りを頼りなさい。」

わかって、くれとるんやな。

「2人の子供に生まれて良かった」
母と2人の時にそう伝えた後
「お母さんって結婚の決めてはなんやったん」と聞いた。
いつも通り五十円玉の下りが来るのだろうと思ったら
「話が合って楽しいけぇよっっっ!」
と今まで聞いたことの無い答えが返ってきた。
帰って父に伝えると
「たのしい...たのしい...」と呟きながらとてもとても嬉しそうに笑っていた。

それから数日後
2022年10月4日
難病が悪化して父は帰らぬ人となってしまった。
元々不健康な人だった。高血圧に高脂血症、糖尿病。肝硬変の為に肝臓移植もした。
間質性肺炎という肺の難病を患って居たため常に酸素吸入器が手放せなかった。
それはお風呂に入っている時もだった。
お風呂上がりに脱衣所でゼーゼー言いながらへたり込んでいる父の背中を見るのが苦しかった。
出棺の時「お父さん頑張ったね。かっこいいよ」と言った。天国に行ったであろう父に伝わってるかどうかは私には分からない。

ずっと親子だったから好きだけじゃ無い。
何回このクソ親父と思ったか分からん。
気に入らない事があればすぐ怒鳴る。
それでも「親じゃけぇここまで言うんぞ!」と言ってくれていた人が居なくなった事が、悲しくて悲しくて仕方がない。

「悲しみのために踊ろう」というコンセプトなだけあってリズミカルなのに切なかったりいじらしかったりしてDance for Sorrowを聞くたびに名盤だなぁと思う。
父の死から1年経つのに立ち直れていない今の自分と重なって胸がぎゅーっとなる。
Cranberry,1984からMelody Laneへと続くのが好きだ。
両親の元に生まれて来れて良かった事と父が居なくなった世界でも生き続けようと思う事を忘れないでいられるから。
ありがとう Panorama Panama Town
私はこのアルバムを一生聴き続けるよ。

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