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余命宣告をされた直後と、死ぬ時、実際に怖いのはどっちなんだろう。

小さいころに、死んだらどこに行くんだろう、ということが心配になって夜寝れなくなる、ということを経験したことのある人は多いと思います。

ちなみに私は自分自身が亡くなる以外にも、家族だったり、親しい人だったりが…と色々なパターンで亡くなる状況を想像しては半泣きになった経験があります。というか、時々不定期に想像しています。
勝手に殺されている皆さん、ごめんなさい。

というのも、この親しい人が死んだら…という状況を考えると、凄い恐怖と共に、何でもない「今」がどれだけ幸せなのか、とか、後から振り返ったら「あの時は幸せだったな」と思うのだろう、と考えて、目の前の「今」をとても大切にしよう、と思えるのです。
やっぱり定期的にこれからも勝手に亡くならせると思います…ごめんなさい。

そんななか、昨晩録画していたドキュメンタリーを見て、ふっと思ったのが、余命宣告をされた直後と、死ぬ時、実際に怖いのはどっちなんだろう、ということ。

この自問に対しては、いつものただ、怖い…だから相手を大切にしよう、というのとは違う方向に思考が飛んで行きました。

まず思い出したのが「解夏」という言葉。
「げげ」と読みます。
本来は仏教用語で、夏(雨季・約3カ月)の期間、外出せずに籠って修行する夏安居(げあんご)が終わること、またはその修行の最終日のことを指す言葉だそうです。

この言葉を知ったきっかけは「解夏」というタイトルの映画。
主人公は失明するかもしれないという恐怖や苦悩と闘っているのですが、そんな主人公にある老人が「失明する日は、あなたが失明するという恐怖から解き放たれる日(それがあなたにとっての解夏)」といったことを告げるのです。

当時、このセリフに衝撃を受けました。
当たり前なことだけど、気付かなかった…!
失明した日から、失明するかも!というドキドキや不安はなくなるのか、確かにそうか…!!

その斬新?な考え方に驚き、でもしっくりきたので印象に残っただけだったのですが、それが最近読んだ「世界のエリートがやっている最高の休息法」という本の内容と繋がりました。

いきなり科学的?ビジネスライク?な本になりますが、この本のなかで以下のように書かれています。

脳のすべての疲れやストレスは、過去や未来から生まれる。
すでに終わったことを気に病んでいたり、これから起きることを不安に思っていたり、とにかく心がいまここにない。

この本を読んだ際はそんなものかな、と思ったのですが、自分が余命宣告をされることをイメージし、その宣告の後からの時間と死ぬ瞬間、どっちが怖いのか、と考えた瞬間に、上記の言葉がしっくりきました。

余命宣告をされたときは、いつか来る未来、を思って恐怖する、ということ。
大きなストレスは今現在はない。
まだ起きておらず、未来からやってくる。
つまり逆に考えると、今、に集中することが心の安定を保つ最良の方法であるということ。

心配事の9割は実際に起こらない、と言われたりもするなかで、残念ながら「死」だけは確実に残りの1割に入っています。
その恐怖から、目を逸らしすぎることなく、且つ飲み込まれず、上手く付き合うことは、瞑想やマインドフルネス等と同様に、「」をしっかり生きるのに大事なスパイスのようなものなのかな…とぼんやり考えました。

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