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私の国の理想の一日

ここのところ自分の仕事の軸を見つけたくて、未着手だった自己分析ツールを使ったり、意図的に自分の考えを職場の人に暴露してみたり、コーチングを受けたりなどしている。先日のコーチングセッションで、私にはこの国がとにかく生きづらいことを吐露したら、「もし、maiyaさんの国をつくるとしたら、それはどんな国ですか?」、「そこでの理想の1日は、いったいどんな1日ですか?」という拡大質問をされた。

そんなこと今まで誰にも訊かれたことなかったけれど、するする出てきた。特に理想の1日は鮮明な映像になって現れて、答えながら自分で自分にびっくりした。それ、文章でまとめてみましょうか、と言われたので、今これを書いている。

その国は文化芸術をとても大切にしている。劇場や図書館や美術館に博物館。表現や知の蓄積と発表の場が、共同体にとっていかに重要かを知っているから、そこに過剰な市場原理を持ち込まない。行政が守る。政府を揶揄したり批判する作品も、弾圧なんかしない。国について、歴史について、人間について、一人ひとり真剣に考えてもらいたいから。それらは常に万人に開かれている。

そして子どもを貴重な人間として慮る。未来を担うのは幼い子どもで、「みんなの子ども」だという共通認識がある。だから子どもの個性を尊重する学校教育の体制を敷く。好きな服装で、性別も出生によって制限されず、疑問に思うことは自由に発言していい。何かやりたいことがあれば、先生たちはそれを全力でサポートする。画一性や統制、我慢を強要しない。可能性の芽を摘むことこそ、最も避けるべき事態であると考えているから。子どもたち同士も、自分の個性が受け入れられるならば、自分もまた他者の個性を認める必要があると学ぶ。世の中の仕組みを知り、歴史を学んで、この国がどういう形で成り立っていて、なぜ、税金を払うのか、投票に行くのかを知っている。

子どもが共同体にとってかけがえのない存在と信じているから、子育てをしている親(母親でなく、親、という単語は意図的である)のことも、周りで助ける。駅で困っている親を見かけたら、「何かお手伝いできることはありますか?」と見知らぬ人が自然に声をかける。結婚している人もしていない人も。子どもがいる人もいない人も。妊娠したらまず「おめでとう」と言われ、どうすれば安心して働けるか、上司や仲間から尋ねられ、それを制度に取り入れてくれる。「いつ結婚するの?」「子どもはまだ?」なんて無粋な質問はしない。それは一人ひとりが自分に最もしっくりくる方法で選択すればいいし、自分の力だけでは叶えることのできない奇跡のようなものだから。生活のスタイルだって、自分に最適なものを選んで欲しい。夫婦は同じ苗字でなくてもいいし、ひとつ同じ屋根の下に暮らす必要だって必ずしもない。自分が産んだ子どもでなくても、家族になりたいと思えばそうすればいい。「主人」という単語は不適切なものとして認識されている。お互いに対等な人生のパートナーだという思想が浸透しているから。

経済的な成長を国の第一の目的にしていない。豊かな自然を守り、立場の違う人との議論にきちんと時間をかけることを目指しているから、スピードも重要ではない。その政策を行うことで、最も困る国民の声に耳を傾け、合意形成のプロセスを丁寧に行う。病を抱える人や障がいを持つ人、よその国から来た人も、すべてが共同体の成員だから、命を選別なんかしない。

相互に違いを受け入れ、一人ひとりが、それぞれの幸せを享受できる。戦争も、絶対にしない。

奪わず、競わず、殺さない。

そんな国に暮らす私の理想の幸せの1日はこんなものだった。

私はロングスリーパーなので、8時とか9時くらいに目覚ましを使わず緩やかに目覚める。とても天気がいいので布団を干そうかな、など考える。着る服も選ぶピアスも、今日は少しカラフルだ。ブランチをつくり、食べ、ニュースを読んだり、本を読んだりする時間を組み込んだ後、家の近くの小川や公園を散歩する。陽の光や花々に目を留め、「なんでもない時間」を噛みしめて、夕飯の買い物に行く。意図して買わず、あ、これが旬か、と思ったものを買う。ル・クルーゼの鍋で煮込んだり、オーブンを使って野菜やお肉を焼いたり、魚は捌くところからきっと始める(できないけど)。前菜やメインを様々なジャンルで作って、テーブルにセットする。たくさんの取り皿とグラスを並べる。今日は私の子どもの誕生日を祝うために、きょうだいたちが私の家に遊びにくる。今年で5歳。息子だが、性別を選ぶのはこの子自身だ。私はこの子を愛しているが、その想いが支配という呪いに変わらぬよう、注意深く自分を見張る。きょうだいたちがパートナーや子どもを伴って到着する。ワインや、最近おいしいと思った何かをそれぞれが持ってくる。私の子どもへの誕生日プレゼントもあったりする。BGMは、小さなボリュームでクラシックをかけている。ピアノ曲かもしれない。晩餐が進む中で、様々な会話がなされる。政治の話、仕事の話、最近観た作品の話、今なにを勉強しているかの話。ねえ、そのお皿取って。これ、おいしいね。私はきょうだいが多いので、最低10人以上はその場にいる。少ない人数でそれぞれのトピックを楽しむ場面もある。途中で姪が「いまこれが学校で流行っているの」と私のセットしていたBGMを変えたりする。

私の右側の席に息子がいて、左側に、パートナーがいる(ここで夫という言葉を使わないのは、中学生の時に受けた技術の授業で、製作に使う定規の長辺を長手と呼び、短辺を妻手と名付けていたことの違和感による)。両隣に、愛する人がいて、そしてふと視線をあげれば、各々が、たまたま出会った人間関係を楽しんでいる姿がそこにはある。私はこの人たちの笑顔がとても好きだ。

私のパートナーは、これまでに一度も、私を「お前」と呼んだことがない。たぶん、これからもそんな言葉は聴くことがないだろう。私は自分の感じたことや考えたことを文章で表現する仕事をしているが、自分の考えを深めようとしているとき、家の中をぐるぐると歩き回る癖がある。彼はそのことを良く知っていて、私が私の内側と向き合っているときは、そっと私を放置していてくれる。けれど言葉が上手く出てこないときは、この人と話をする。「maiyaこの前こう言っていたよ」、「そっか。いいね。他には?」。そうして紡いだ言葉を読む、最初の読者も彼である。突然、「あなたが私を尊重してくれていることにとても救われている」、と心の底から愛しさがこみ上げる。それを素直に伝えると、優しい笑顔で少し照れたように「ありがとう」と返ってくる。

夜の9時くらいに、晩餐は終わる。家路につく皆を見送ったあと、遠方から遊びにきてくれた姉夫婦のために布団を用意し、後片付けや息子のお風呂などの作業を2人で分担して、子どもが寝たのを確認し、一息つくために温かいお茶を飲む。洗濯機のタイマーをセットするなど、明日の家事を少しだけして、眠りにつく。今日干した布団は空気を含んでふわふわと暖かく、少しだけ太陽のにおいがする。

ちなみに、この国の国旗のシンボルは鈴蘭。私の誕生花である。花言葉は、「幸福の再来」。鈴蘭は春に咲く小さなかわいらしい花だが、有毒植物でもある。この国は私には幸せで生きやすいが、そうではないと感じる人が生まれてくる可能性をも持つ。それはもしかすると私の息子かもしれない。毒は、人間の弱さや、狡さや、妬み、怒り、悪意、そういった負の部分を象徴している。しかしこれの存在を無視することはできないし、ここから、私の国で生きづらさを抱える人への共感が始まるとも思う。過度な優しさや愛が誰かを苦しめることもある。これが幸せだと盲信することも危険だ。

毒をわが身に保ちながら、それでも、谷間に咲く時には旅人を癒す存在でありたい。

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