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バットマンのノブリスオブリージュと評論、そして謎解き

謎解きが好きだ。
もちろん謎解きする方ではない。
シャーロックホームズやポアロ、日本なら金田一、探偵ものは片っ端からみていた。ミステリーというより犯人と探偵の頭脳戦が楽しいのだ。どうやら自分に全くない天才的頭脳を駆使するという要素に惹かれているようだ。

今回のバットマンの敵は、リドラーである。コミックスもアニメもみていないクチなのであまり思い入れのないキャラクターだ。知ってるな、程度の。緑色の、ナゾナゾ出してくる怪人だった。そして、今回のバットマンは頭脳戦の文字が踊る。そこまで期待はしていないけど、楽しみにできる要素ではある。前評判は上々のようだ。

ネタバレ⚠️

初日にしては普通の入り、重厚なオープニングで映画は始まった。紹介がてらチンピラたちを圧倒的な暴力でねじ伏せるバットマンは悲哀を纏い、痛々しい。最初からヒーロー然としないようにみせているのだろう。歴代バットマンで一番蕭然としている。
元々、犯罪者に親を目の前で殺されたトラウマから生まれたヒーローだ。リアルの都市の犯罪率が高かった頃と今では事情が違う。今は犯罪より根が深い悪が蔓延する少し複雑な社会背景なのだ。バットマン誕生から月日がたち設定と時代性の乖離がある。この社会でゴッサムは相変わらず犯罪都市であり続けている。その狭い世界で、暴力には暴力、復讐を遂行する若きバットマン。今回はバットマン誕生の物語は飛ばすようだ。ブルースがバットマンになる動機というもの自体が年月を経て古臭く陳腐になった。目の前で親を殺された少年という属性はありふれていて(だからダメだって言っている訳では無い。念の為)悲劇の少年が復讐を果たす。という図解では単純すぎる。だからこそティム・バートン版のバットマンで悪党にも事情があって悪に染まったのだ。という文脈の流れが新鮮であった。ただやっつければいいという単純なヒーロー像はもう通用しない。と提示した。バットマンリターンズの興行収入は低かったが、高く評価されているのはその点であった。あれから世界中の物語はどんなトラウマ属性を登場人物に帯びさせるかという流れであったと思う。人は慣れてしまうものだ。それも時代性である。それを断ち切ったのがノーラン版で、ダークナイトのジョーカーだ。純粋なる悪、ただの悪、トラウマなど必要ない。鮮烈であり未だこれ以上のバットマンはないように思う。ライジングだって迷走していた。それ以降のバットマンはどこへ向かうのか。
今回はそれが試されている。
少なくとも私はそう思いながら観た。

ブルースはまだ未熟な若い青年、戦い方も迷いだらけで、そこら辺にいる若い青年と変わらない。正義の側であるはずの警察、検察、市長の裏側を「人は見た目で分からない」と自分で言っておきながら、父の不正義に対して「正義と信じていた」と嘆く。ブレブレの若者なのである。今回はブルースに焦点を当てた、と監督が言うように彼自身のアイデンティティの確立の話であった。ある意味、監督が省いたとする誕生譚の役割であったかもしれない。
敵のいるクラブの門番にバットマンで現れた時「俺を知っているか」と聞いた。答えはYESだ。
ブルースで現れたとき同じ質問をする
「俺を知っているか」答えは同じくYESだ。
誰もが知ってるバットマンとブルース・ウェイン。
対比で入れたシーンだと思うがヤケになってるブルースが強調されていて辛い。満身創痍のブルース。
おお、ブルースそれが若者だよ。
父だって色んな顔を持っていたのだ。父の過ちを受け入れ、自分にとってアルフレッドが唯一の家族であると認識したとき、自分の土台である父の正義に立脚しない自らの信念で動くべきだと悟った。ようにみえた。いや、そうでないと。

そしてバットマンの前に立ちはだかるリドラー。
ブルースのアイデンティティとも言えるトラウマ、両親を殺された少年というモチーフの対比はリドラーに殺害された市長の息子で強調される。分かりやすく市長の息子に自分を重ねるブルース。バットマン姿とブルースとして彼を救う。葬式のシーン、異変を察知したブルースがその姿で少年を助けた。このシーンを見て、ブルースとして闘えないものかと私は酷く残念になった。ブルースでやれるんならバットマンなんか要らないのだけれど、パティンソンがあまりにも悲痛に演じるので、辛くなってしまった。
もうひとつの対比は、VSリドラーである。
なんでブルース=バットマンだと気づいたのかは別にいい、大事なのは頭脳戦だ。バットマンは元々探偵スキルが高い設定らしいので謎にもすぐ答えをだす。そこまで入り組んだ謎でもないが、今までのバットマンには無い緊張感があってよかった。最終的に捕まえたリドラーはブルースのアイデンティティを揺さぶる出自だった。彼は、父トーマスの孤児院救済計画が頓挫したとことで不運な孤児となった少年であった。トラウマとしてはブルースにかなりマウントを取れるエピソードである。完全に逆恨みなのだが理解はできる。お前は金持ちだ、みんなに同情され庇護される、自分はどうだ、ネズミに齧られみじめな生活だったとブルース=バットマンを責める。
ここで、バットマン誕生の時代背景と現代のズレが酷くなる弊害がでてくる。20年前、孤児院がどうなのか分からないがそこまで酷いものなのか、という純粋なる疑問だ。サイコ然とした振る舞いも、あまりにステレオタイプ過ぎる。過去のファイルもボロボロなのが出てくるが、20年前だってPCあっただろう、ゴッサムだけ違うのか、とツッコミたくなる。ヤボは言わないけど(言ってる)ここで現代の分断、富裕層と貧困をおさらいするように立場の違いを鮮明にしてブルースを追い立てる。もう、可哀想な孤児ブルースは物語上でもメタ的にも苦しい。しかもリドラーはSNSで同じ様な底辺にいる者達でコミュニティを作り、バットマンに対抗する。謎解きはブルース対SNSの集合知だった。現代はそうならざるを得ない。いかにも現代的だった。
探偵の謎解きは今では集合知が代替するのか。
現代は専門性がどの分野でも際立っていてひとりではまかない切れない。正義がひとりひとりにちがう形で存在するのと同じに多様なのだ。

現代の探偵とは何か。謎が暴かれていき胸のすく思いと腑に落ちる快感をダークナイトの評論を読んだ時に味わったことがある。ダークナイトの興奮と熱狂、凄いことは分かる。それが何かが分からない。そのモヤモヤを晴らす言説に何年も経ってから出会った。たまたま手に取ったある評論集を読んだ時だ。ダークナイトを知りたくて読んだ訳ではなかったが、他の作品の評論と共に圧倒的分析と言語化能力で解かれていくダークナイトに興奮した。餅は餅屋というのはこのことだ。評論とは作品を読み解く視点だ。多角的な視点は作品を複雑に造形していきの評価の礎となる。評論は過小評価をされている。
このバットマンが、どのように露わにされ謎を解かれるのか、しばらくかかるだろうが待っていたい。

前評判の高さは納得だが、サラッとおさらいをした、という感じのバットマンだった。何か突き抜けたものがなかった。ダークナイトのせいで背負うものが多くなったシリーズで不憫だが、とりあえず時代性もあるし、映像とアクションは文句がないし、キャストもいい(でもリドラーはtoo muchだった気がする)なのにもう一歩何かがという印象だった。キャットウーマンとはほんのりラブラインが伝統なのでこうなったのかもしれないけど、ビジネスライクにするほうが現代的でよかったのではないか。
最後のボランティアシーンは、バットマンをやるということはゴッサムという街で貴族として君臨するウェイン家のノブリスオブリージュなのだ、と思えば闘う意味も含めて、そうだね、という気もする。ブルース・ウェインの立場なら当然だ「あの甲冑だと動きにくかろうな、脱いじゃえよブルース」と元も子もないこと考えていた。
これからのバットマンはブルース・ウェインをどうみせて行くかが鍵になるのでは?と何となく思う。
無難なバットマンだったが、本当に評価できるのはジョーカーと対峙したときではなかろうか。どうやら次が控えているようである。

#バットマン  #ダークナイト 
#THEBADMAN  #ザ・バットマン







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