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あいことば 著:朝倉 千秋

即興創作:檸檬
「あいことば」
著:朝倉 千秋

 彼女はレモンティーを注文した。メニューを隅から隅まで見て、ようやく決めた、というように見えた。
僕はメニューを見ないでアイスコーヒーを注文した。メニューなんて見なくたって、アイスコーヒーを置いていない喫茶店などない。そもそも別れ話をしに喫茶店に入ったのに、どんな飲み物を飲もうかなんて吟味するのも馬鹿げている。
 レモンティーだって、置いてない喫茶店なんてないだろう。それでも彼女はわざわざメニューの中からレモンティーを探し出し、指先でしっかりと示しながら店員に注文をしていた。レモンティーはちょっとないんです、ストレートかミルクティーなら、と断られた経験でもあるのだろうか。おそらくないのだろうが、それでもその目で確認してからしか注文に進まない。彼女のそういうところに僕はなんだか無性に苛立つ。そもそもレモンティーを選ぶということ自体が改めて許せない気持ちになった。僕がレモンティーを嫌っていると知っていながら。
 考えてみれば彼女の気に食わないところなんて、この程度のことしかないのかもしれなかった。

 レモンティーという飲み物が許せないんだ、と僕が彼女に話したのは、まだ僕らが付き合い始めたばかりの頃、今と同じように喫茶店で向かい合ったときだった。話題の映画を二人で観て、夕飯までは時間があるからと適当に入った喫茶店の内装は、考えてみれば別れ話の舞台になるこの喫茶店によく似ていた。
 付き合い始めたばかりの僕らはデートというだけで上機嫌だったし、話題の映画は話題になるだけあってなかなか面白かった。だから僕の「アンチ・レモンティー」発言は何もシリアスな発言ではなかったし、恋人の何の気なしの注文を茶化してじゃれ合ってみようというだけのものだった。彼女も気を悪くすることなく、そんなことに腹が立つんだ、と面白そうに笑った。
 大体さ、紅茶って香りを楽しむものなんじゃないの? 香りの強いレモンなんかを入れたら台無しでしょ。
 紅茶の香りの違いなんて、根っからのコーヒー党の僕には分かりやしなかった。でもそのときは、レモンティーという存在の否定派に回って彼女と戯れの議論を交わすことが、なんだかとても楽しいことに思えていた。やってみればレモンティーの気に食わないところなんて、いくらでも見つけては指摘することが可能だった。
 レモンティーなんて、本当は好きでも嫌いでもなかった。強いて言うなら紅茶はストレートでしか飲まない僕にとって、なんだか邪道っぽいな、くらいの立ち位置の存在だった。だけど茶化しているうちに引っ込みがつかなくなって、最終的にはレモンティーを一生飲まないという誓いまで立てさせられた。僕が胸に手を当てて誓うと、彼女は満足そうに笑った。

 それから彼女とは長い時間を過ごした。別れ話をする今日までの間に、五年と七か月は付き合ってきたことになる。その間、日常の何気ない会話の中で、時折彼女が「レモンティー嫌いだもんね」とからかってくることがあった。レストランに入って飲み物を選んでいるとき、レモンティーもあるよ、とわき腹をくすぐるみたいなこそばゆい耳打ちをしてくる彼女が、たまらなく愛おしかった。そのたびにああ大嫌いだと僕は答えて、彼女は面白そうにコロコロと笑った。
 付き合い始めた頃にはそんな風な、何でもない二人の符丁みたいなものが生まれては消えていった。お互いの間で起こる些細なことが面白く、何でもないやり取りが思い出すだけで笑ってしまうくらい可笑しく感じた。「洗濯機事件」「宇治抹茶味」「ディズニーのときの二の舞」なんて言葉たちは、僕たちだけが笑える秘密の合言葉になった。誰かに会話を聞かれても内容は知られずに、僕たちだけでこっそり笑いあえることが嬉しかった。
 そんな些細な符丁の中でも、レモンティーは最初期に生まれた鉄板の一つだった。何度も何度も繰り返しているうちに、僕らは言葉を通してじゃれつき、お互いのことを今まで以上に好きになり、それから僕はいつの間にか、レモンティーを本当に憎むことになった。
 僕のことを茶化しながら、彼女はずっとレモンティーを頼み続けた。そのことがなんとなく気に食わなくなったのはいつの頃からだっただろうか。たしかにどこかには、最初に不快に思った瞬間があるはずなのに、その決定的な瞬間は二人で過ごした日常の海に溶けて見つけ出すことができない。初めて自覚したときにはもう、〝また〟レモンティーかよとうんざりし始めていた気がする。彼女が僕に何か腹を立てているときなんかにわざわざレモンティーを目の前で飲まれると、当てつけか? と言いがかりをつけたくなってしまう程だった。

 そして別れ話をする今日も、彼女はやっぱりレモンティーを注文した。流石にこれは当てつけだろう、と僕は思った。そんなことをいちいち気にするなんてしょうもないなと、頭の一方では分かっていたけれど。
 彼女の目が僕を見ていた。両目が充血しているのは、家を出る前に泣いていたからなのだろうか。彼女の瞳の中にはもう愛おしさの欠片も見て取れなくて、僕は自分が完全に愛されていないことを理解した。僕の目にもおそらく、恋人に向ける親愛の情は宿ってはいないのだと思う。
 そういうものが、僕らの積み重ねた五年と七か月をかけてゆっくりと消費され、いつの間にか互いの中からすっかりなくなってしまったのだ。そして僕らは、使い潰してしまったそれらをもう一度充填する方法を、遂に見つけ出すことができなかった。そのことが僕たちにとって決定的な悲劇だった。幾度となく繰り返した喧嘩には数えきれない理由があったが、それをいくら積み上げたって別れる理由にはきっとならない。でもこうしてお互いの目を見てしまえば、僕らが付き合い続けるなんて到底無理だと自然と思えた。
 店員がレモンティーとアイスコーヒーを運んできて、僕らの間に漂った張り詰めた空気に気圧されてか、小さな声でごゆっくり、と言い残して去っていった。僕はアイスコーヒーを一口飲んで、さて、と両手をテーブルに置いて、言葉を選んだ。僕が最初の言葉を引き受けたことを、彼女は了解しているように黙って僕の顔を見ていた。そういう役割みたいなものを、言葉を介さずに適宜振り分けられるくらいには、長い付き合いだったと思う。楽しいこともいっぱいあった。楽しいことの方が多かったはずだ。きっと無駄ではなかったと思う。消えてしまうのは惜しいと思う。けれどもここで別れ話をしなくたって、決定的な何かはもう消えてしまっているとも思う。
 僕の言葉はなかなかまとまってくれなかった。もどかしそうに、彼女は僕の目を睨みつけ、それからふと視線を手元のレモンティーへと落とした。グラスの縁には輪切りにされた生のレモンが刺さっていた。彼女の指先がそのレモンをつまみ上げ、丁寧に二つに折って紅茶の入ったグラスへと絞った。果肉が潰れて弾けた果汁が、ポツリとひとつ、僕の手の甲を濡らした。

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