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恋の賭け、成立条件緩和中【第3章】


第3章 平成18年(2006年)

1.ひまり26歳 ボンドガールに憧れて

・2年後、8月

その日は特に暑かった。それは、真夏という理由だけではなかった。

異常な混雑が、その暑さを何倍にもしていた。入国手続きが、通常の3倍以上の時間がかかり、それでもまだ終わらない。

ヒースロー空港のセキュリティーが、最高レベルに引き上げられていた。
緊急非常事態だった。

私に入った情報の中で、最も信ぴょう性が高そうだと思えるたのは、テロの犯人が逮捕されたというものだった。しかし、「飛行機に乗り立てこもった」とか、「自爆が失敗だった」などと、情報は錯綜していた。何が真実かは分からないのだ。

イタリアのミラノから、ここ、イギリスのヒースロー空港に到着した、私たち『ゆ会』の一行は、ストレスの限界点に達しつつあった。

液体は、全て没収された。ノドが乾いても水分補給がままならない。

こんなことは、私にも初めてのことだった。マニュアルにも載っていないし、会社に問い合わせても、誰も対処方法を教えてはくれなかった。対処の方法を分かる者などいないのだ。

「現場判断で何とかしろって、どうしたらイイの?」と、私の口からも、つい弱音が出てしまう。

1人の女性客が、私に近づいてきた。

「隊長。ホテルに着けば、化粧水ってありますか?」と、鈴木さんは私に尋ねたのだ。

今回宿泊するホテルのアメニティーグッズに、化粧水は無い。これは大変だと、私も気づき、目をカッと見開いた。落ち込んでいる場合ではない。
この空港でのトラブルを乗り越え、無事にホテルに着いたとしても、女性のお客様たちが困ってしまうことが確定している。今、何か対策を考えなければ……。

テロ犯が逮捕されたという緊迫の異国において、観光客が個人で移動することは控えさせたい。この状況の危険度を正確に把握できない以上は、ホテルからの外出禁止を伝えることになるだろう。

私は、化粧水の問題と、それに加えて、液体を没収された不具合を考えた。考えはまとまらない。でもすぐに、私には別の案が浮かんだ。

「みなさ~ん。隊長の声が聞こえるところに集まってくださ~い」と、私はお客様に声をかけ、集合を求めた。空港内は異常な混雑で、メンバーは散らばりようがなかったため、すぐに16人全員が集まってくれた。

「ご覧の通り、テロ事件があって、このロンドンは今、大変な状態です。そして、私たちは液体という液体を、全て没収されてしまいました」

「そうだよ~。せっかくワイナリーで買ったあのワイン。楽しみにしていたのに~!」
「空港の検査員たちが、絶対に、あとで飲むわ。悔しい」
「悔しい~!」

アチコチから不満があふれた。もっともな意見で、私も同意しかない。

「ワインは、本当に悔しいです! そして女性は、化粧水が没収されて大変なのです。男性のみなさん、あなたの愛する妻が、その美しさを失いかねない危機に陥っています!」

「さすが隊長! 良く気づいたね~」
「ホント、隊長、凄いわ」

「任せてください! …って言いたいところですが、気づいたのは鈴木さんです」

「鈴木さん、ありがとう~! でも本当、大変!」
「ホテルに行ったら、化粧水ってあるの~?」

「ホテルのアメニティーグッズに、化粧水はありません」と、私は言い切った。

「ホテル内とか、ホテルの近くに、コンビニとかって、ありますか?」

「今回のホテルの近くには、コンビニもドラックストアもありません。今、真偽は分かりませんが、テロ犯の何人かが逮捕されたという噂うわさがありますので、正確な状況が分かるまでは、ホテルからの外出を控えていただきたいのです」

「え~、じゃあ今夜は化粧水なし~?」
「それは困る~」
「困ります~」
「隊長~、どうにかなりませんか~」

「はいっ! そこで、です! 私たちの仲間の中には、つまり皆さんの中には、私なんかより遥かに知恵のある男性陣が、実にたくさんいらっしゃいます。気配り上手なミセス&レディースも、実にたくさんいらっしゃるワケです。皆さんで、この問題を解決する具体的な方法を、どうか考えて、捻りだして欲しいのです!」

困った時には、困りましたと声を上げる。手伝ってほしい時には、手伝ってと、ちゃんと言葉にして伝える。
添乗経験を重ね、トラブルやピンチを繰り返し見出した、私の【掟】の1つだった。

自分1人で考え、何とかしようなんて、下らないプライドでしかない。事実、お客様は、知識も知恵も処世術も、私なんかよりたくさん持っているのだ。

「どうせ、足止めされてて暇なんだし、イッチョ考えてみるか」と小林さんが言った。

世話好きの渡辺さんが、4人の班を4つ作って、「あなたがこの班の班長ね」と、仕切り出していた。すると、それぞれの班が、まるで文化祭の打ち合わせみたいに、楽しそうに意見を出し始めた。

私は、4つの班を巡回した。法的な観点と、イギリスの慣習などを考慮して、実行不可能な案を潰して回った。無駄を省く目的でもあり、嫌われ役は自分がやるしかないという覚悟でもあった。

渡辺さんが班を作ったことで、この巡回がスムーズに行なえて、とてもありがたかった。

「うん。やりましょう! 会社に言うと『ダメ』って言われますので、会社へは報告も相談もなしで、やっちゃいます」

「イイんですか?」

「ええ。法的には何の問題ありません。ただ、旅行業界のルールではNGです。しかし今は異常事態です。さっき、現場判断で何とかしろって言われたので、この案は隊長責任でGOです」

「なるほど~! 隊長、男前っすね~」

私は、全員に聞こえる大声で言った。

「みなさ~ん。隊長に注目してくださ~い! このあと私たちが乗るバスの、運転手さんに、『ホテルまでの途中で、スーパーマーケットに寄ってください』と頼んでみま~す」

「おお~!」
「ナイスアイディア!」
「できるんですか?」

「本来は、ダメで~す!」

「ええ~、ダメなの~」

「そして、ここからが本題です! おそらくバスの運転手さんが断ります。何故ならそれは、運転手さんにとってルール違反になるからです。そこで、みなさん、今度は『どうやって運転手さんを説得するか!』です! これを、各班で考えてくださ~い!」

* * *


バスが空港を出発してから、5分は確実に経過していた。
みんなで考えた作戦を、いよいよスタートさせる。練習などできるハズもなく、本番1発のみの挑戦なのだ。

さすがに、私も緊張していた。

私は、後部エリアの座席から立ち上がった。近くの仲間たちから、アイコンタクトのみのエールが届いた。

運転手さんに歩みよると、私は、流暢な英語で、
「プリ~ズ。運転手さん。途中、スーパーマーケットに寄ってください。お願いします」と、お願いした。

「No…」と、いたってシンプルな答えが返ってきた。

イギリス人男性の見本のような、ブロンドヘアで、長身のハンサムな運転手に、私は少し圧倒されていたと思う。

何故かとっさに、ホンの少しだけお色気を加えた方が良いかもと魔が差してしまい、腰がクネクネとかすかに動いてしまった。

私は、計画上、誰も座らせていなかった運転席のすぐ後ろの席に、そっと腰を下ろした。
そして目を閉じて、自分の腰の動きには誰一人気づいていませんようにと、神に祈った。

ストレートにお願いする。それが『作戦A』だったのだ。

お色気作戦などは、誰一人、提案などしていない。囁いてもいなかった。
スーパーマーケットに寄ってもらうことは、みんなの真剣な、切なる願いなのだ。

私の脳内では、イギリス人男性、ブロンドヘア、高身長、車(バスだが)、(スーパーに寄るという)ミッション、(私)女性、というキーワードをかき集め、無意識の領域で007ダブルオーセブンを妄想していたのかもしれない。

私は、ボンドガールに憧れがあったことを思い出し、反省した。
ここはサッサと『作戦B』に移った方が良さそうだ。

島田さんは『作戦B』の実行担当者だった。
私とアイコンタクトを交わした島田さんは、運転手さんとの交渉のため、私と席を変わった。島田さんはイギリス英語の達人だった。52歳の男性弁護士で、「説得なら、うちの主人は超一流です」と、奥さんが堂々と太鼓判を押した方なのだ。

島田さんは立ち上がり、運転手さんに話しかけた。
「紳士のあなたに、ひと言だけお話しさせてください」と、それはそれは、素晴らしい発音だった。

「女性たちが……、化粧水を没収され困っているのです」と、「女性たちが」の後で、充分な間を取り、語った。

「おお、それは気の毒だ」と、運転手さんは言った。

染谷そめやさんが、島田さんの隣にスタンバイしていた。
染谷さんは30代前半の美しい女性なのだ。ストレートの黒髪も美しく、常に天使の輪が見えた。ジャパニーズビューティーの代表と言っても過言ではない。このツアーには夫婦で参加していて、この作戦は染谷さんのご主人が発案だった。

染谷夫人が動いた。『作戦C』の実行だ。

「これは私からのチップです」と、10ポンド紙幣が手渡された。
「安全運転をお願いね」と、キレイな英語で語られ、ジャパニーズビューティーの爽やかな笑顔もプラスされた。

すかさず数人が、「私もチップをあげたいね」などと言い出した。「チップ」「チップ」という声が、アチコチから聞こえる。この時、島田さんと染谷さんは素早く、かつ、さり気なく席を交換していた。

すぐに、『作戦D』を実行する。
後方の私が、大きな紙袋を持って運転手さんに近づいた。

「どうぞ、日本製のお菓子です。これは私達から、運転手さんのお子さんへのプレゼントです」と、明るく爽やかな英語で言った。私は『作戦A』の実行中に、運転手さんの家族写真を発見したのだった。それで、「お子さんへの」というアドリブを加えたのだ。

私は、上手に袋の中身をチラと見せて、それから紙袋を渡そうという素振りを行なった。源氏パイ、コアラのマーチ、うまい棒、サブレやフィナンシェなど、そのカラフルなパッケージを、運転手さんは、チラリと見たはずだ。

ハンドルを握る運転手さんが、大きな紙袋を受け取れるハズもなく、困惑するのは計算済みで、「後ろの席の私が預かります。最後にお渡ししますね」と、運転席の後ろに座っていた染谷さんが、タイミングよく声をかけた。

ジャパニーズビューティーの染谷さんは、バックミラー越しに運転手さんとアイコンタクトも交わしていた。

運転手さんが、「コク」っと頷くのを見て、私は紙袋を染谷さんに渡し、奥へと移動した。

日本製のお菓子は、ここロンドンでも「とても美味しい」と評判なのだ。知る人ぞ知る、外国人ウケが最も良いお土産は、日本製のお菓子なのだ。

子どもが喜ぶ様子を、運転手さんはイメージしたことだろう。その表情が変わり、明らかに喜んでいるのが見てとれた。
運転手さんは、私の腰の動きには食いつかなかったが、日本製のお菓子には食いついたのだ。

「しかし、ルールがあるのだ」と、運転手さんが言ったらしい。

それをキッカケに、『作戦F』が行われた。

弁護士の島田さんが、運転手さんに近づいて、「ミスター、ブラウン」と、運転手さんを名前で呼んだ。後で聞いたら、ネームプレートを見つけたと言っていた。

「この女性たちの、ヒーローになって欲しいのです」

「Hero?」

「イエス」

「・・・」

この「Hero」という単語が決め手となった。

「OK、スーパーマーケットに寄ってあげよう」と運転手さんが言った。

ブラウンさんの「OK」の声に、バスの中は歓声で包まれた。

ダメ押しになってしまったが、『作戦G』も行なわれた。

ジャパニーズビューティーの染谷さんに、皆が続いて、——本当はあらかじめ準備してあったのだが——全員分のチップが集まったのだ。
それがブラウンさんに渡された。小さな紙袋に、ポンド紙幣が、それなりに入っている。

「これがチップかい? ワイロのような金額だ」

「いい、ジョークですね! でもこれは、私たちからのささやかなチップです」と、島田さんが、丁寧に説明した。

* * *


私たちは無事に、ホテルに到着した。
途中、寄ることのできたスーパーマーケットで、各自、必要なモノは購入済みなのだ。みんなニコニコしていた。

それは、化粧水や、その他必要なものを購入できたという安心感と、自分たちは不可能を可能にしたのだという高揚感とが入り混じっていた。

私も、初めての、複雑な快感に浸っていた。

全員が、バスを降りるときに、ブラウンさんにお礼を述べた。
最後に、染谷夫人が、大きな紙袋のお菓子をブラウンさんに渡した。ブラウンさんは、それを大事そうに抱えていた。

ブラウンさんも、満面の笑みだった。


* * *


私たちは、4日間のイギリス観光を終えた。

バスでの移動が多く、その場合、バスの運転手は常にブラウンさんだった。
途中からはブラウンさんも、ほぼ、『ゆ会』のメンバーとなっていた。奥さんのナタリーは、背の高いスラっとした正統派美人で、一人娘のオリヴィアちゃんを溺愛しているなど、そういう情報は、メンバー全員が知っていた。

島田さんも、運転席に置かれていたブラウンさんの家族写真を見つけ、それについて色々と会話を膨らませたのだった。その情報がみんなにも共有されたし、多少の英語ができるメンバーは、ブラウンさんに気さくに話しかけていたのだ。

ブラウンさんも、みんなにドンドン話しかけてきて、途中からは、状況が許す場合、観光施設も一緒に廻ってくれた。ブラウンさんのガイドは、とても評判が良かった。ユーモアたっぷりの解説をしてくれるからだった。

そんな旅が終わり、バスはこれからヒースロー空港へ向かう。

出発前。
ブラウンさんは、私に、こんなお願いをした。

「空港で見送りをしたい。みんなを降ろしたなら、バスをパーキングに止めて、僕は見送りに行く。あなた達のドライバーができて、僕は、本当に楽しかった」

「パーキングに停めるなんて…」

「ああ、ご心配なく。パーキング代は自分で払うさ」

「そうではなくって、ルール違反でしょ?」

「ハハハ~! スーパーマーケットに寄るよりは、罪が軽いよ」

「ナイスジョーク! 分かったわ。サンキュー、ブラウン」

「あなたの、ひたむきさに、僕は心を打たれたんだ」

「…ひたむき」

「Thank you」

「to you too」

私は、嬉しかった。
ドライバーさんが見送りに来てくれるなんて、こんなことは初めてなのだ。

胸の中心が、ジワ~っと熱くなる。鼻の奥がツンとして、私は、あわててブラウンさんに手を振り、クルリと背を向け歩き出した。


* * *


空港に着いた私たちは、スーツケースを預けるための列に並んでいた。数人は、もう預け終えている。
染谷夫人の荷物は、追加料金が必要となり、仲間たちから「買いすぎだ~!」とか「セレブ買いだ~!」などとイジられていた。いじられている染谷夫人も、そしてご主人も、とても楽しそうに笑っている。

そこへブラウンさんが現れた。なんと、奥さんとお嬢さんも一緒だったのだ。

「妻のナタリーと、娘のオリヴィアです」と、ブラウンさんが紹介した。

皆がワーッと、ブラウンさんたちを取り囲んだ。
おそらく、皆、感動していたのだと思う。そんな空気に包まれていた。

オリヴィアちゃんは、きちんとドレスアップしていた。
髪は、濃い茶色のボブカット。天然パーマらしくクルクルしている。
私のヘアスタイルに、よく似ていた。
ナタリーさんは、まるでモデルか女優のようだった。高いヒールが良く似合っていた。

「かわいい~」
「オリヴィアちゃん、いくつだっけ?」
「確か6歳だよ、バスの中でそう聞いた」
「クルクルの髪の毛が可愛い!」
「奥さんも、超~美人~!」
「奥さん、背が高い!」
「脚が長い! 隊長も脚長いけど、もっと長いね~」
「美男美女のカップルだね~」
「お似合いだわ~」
「オリヴィアちゃんが、可愛いワケだ~~~!」

女性陣を中心とした絶賛が続いた。
島田さんは、さり気なくブラウンさんとナタリーさんの間に入って、みんなの日本語を通訳していた。

「オリヴィアちゃんが、みんなにお礼が言いたいそうです」と、島田さんが言った。

ブラウンさんにうながされて、オリヴィアちゃんは1歩前に出た。
英語で、「日本のお菓子が、とても美味しかった。みなさん、ありがとう」と、照れながら言った。

パチパチパチと、自然に拍手が起こった。オリヴィアちゃんは恥ずかしそうに、ブラウンさんの脚に抱きついた。

私は、オリヴィアちゃんへ駆け寄った。片膝をついて目線をオリヴィアちゃんに合わせた。オリヴィアちゃんの手を、そっと握った。

「ありがとう。私たちは、あなたのパパに助けてもらったの」と言った。

私は、視線を上げて、ナタリーさんを見つめた。青い瞳が美しいと思った。
ナタリーさんが羨ましいと思った。なぜか、幼なじみのメーグーのことを思い出した。色は違えど、2人とも美しいストレートのロングヘアーなのだ。

もう一度、オリヴィアちゃんと眼を合わせた。

「あなたのパパは、私たちのヒーローなの」と、私は、笑顔で言った。

オリヴィアちゃんは、ブラウンさんを見上げた。
そして、はにかみ、私と目を合わせ、「Thank you」と言った。

2度目の拍手が起こった。


2.ひまり 『ゆ会』の忘年会

・12月

池袋駅北口から徒歩5分の居酒屋は、焼き鳥が安くて美味しいと、みんなからも好評だった。

テーブル席の奥には、お座敷があった。大きいお座敷が2つで、小さいお座敷が1つ。間のふすまを取り払えば、1つの大きな大宴会場にすることも可能だった。

その大きいお座敷3つを、『ゆ会』が全て予約した。間のふすまを外し、大宴会場が出来上がっている。

参加メンバーの数は、60人以上だった。

各テーブルの中央では、ちゃんこ鍋が出来上がっていた。シンプルな塩味で、お好みで加える柚子胡椒が、めちゃくちゃ好評だった。
お刺身の盛り合わせ、焼き魚、焼き鳥と、店員さんがキビキビと料理を運んでいる。

One・Two・One・Two・Three・Four ♪
♪Bounce with me Bounce with me♪ ♪Bounce with me Bounce♪
♪Bounce with me Bounce with me♪ ♪Bounce with me Bounce♪

DJ OZMAの『アゲ♂アゲ♂EVERY☆騎士ナイト』が聞こえた。携帯電話の着メロで、鳴っているのは、私の携帯電話だ。

「はい、小宮山です。はい、ありがとうございます。無事に帰ってきました~! 今日? 今日はムリですぅ~。明日、会社に顔を出しますね~。はい、そうします。は~い」

「誰からですか?」と、私の隣に座っている田代さんの奥さんが聞いてきた。

さらにその隣には、田代さんのご主人が座っていて、『ゆ会』のご夫婦仲の良さは凄いなと感心しながら、「会社の上司からです。会社に寄るのか、って聞かれました」と、お刺身をつつきながら答えた。

私は、成田空港から直接、この居酒屋に来たのだった。それは『ゆ会』のみんなが知っていた。
幹事の瀬戸さんが、

「隊長の参加は遅れる可能性あり。ツアー終了後、成田から直接の参加となります」

と、事前のアナウンスを行なっていたからだ。例の、メール一斉送信というのは、とても便利だと、むっちゃんから私は聞いていた。

今日は無事、飛行機は遅れることなく成田に着いた。私は、定刻の18時少し前に居酒屋に着き、メンバーからは「雪が降る」などと茶化された。

久しぶりに会う『ゆ会』のみんなは、どの顔も笑顔だった。メンバーからの好意を浴びて、その都度、私の胸は熱くなった。

「それで、ブラウンさんは、わざわざ見送ってくれたんですか?」と、同じテーブルの上田さんが言った。

「そうなの。そんなこと初めてさ! それだけでも嬉しいのに、ブラウンさんは、なんと空港に、奥さんとお嬢さんを呼んでいたのさ~」と、私は目を大きくし、感情を込めて語った。

「ええっ! スゴイ! 家族で見送ってくれたの⁉」
「ブラウンさん、やるなぁ~」
「そういうのって、嬉しいですよね」

「そうなのよ~! 奥さん、メッチャ美人だったし~い。オリヴィアちゃんが、まあ~可愛いのなんのって」

「隊長は、奥さんや娘さんが空港に来るって、知らなかったの?」
「サプライズだったんじゃない?」

「そうなのよ~! ブラウンさんが見送りに来るのは知っていたよ、当人から言われたからね。でも、奥さんやオリヴィアちゃんの登場には、ビックリしたさ~」

「奥さんと子供と、空港で待ち合わせしたのかぁ~」
「欧米の男性って、そういう、ちょっとしたサプライズをサラッとやっちゃうイメージあるわ~」
「欧米の男性って、サービス精神旺盛って感じ、あるよね~」
「すみません、日本の男はサプライズとか思いつかなくて」
「文化の違いね。レディーファーストとかも、素敵よねぇ」
「ホント、ホント」

みんなが自由に語った。当たり前だが口数は、圧倒的に女性が多い。

「これって、僕たちが思っている以上に凄いのかもよ。日本の修学旅行に例えたなら、バスガイドさんが新幹線のホームまで見送りに来た、みたいなさ。もし、そんなことがあったなら、引率の先生や、その学生たちがメッチャ良かったってことだろ?」と、田代さんが言った。

「なんか、その例えは微妙だけど、でも、隊長たちが凄かったのは間違いないわね」
「隊長は、現地の運転手さんまで魅了したのよ」
「その運転手さん、ハンサムなんでしょ? 会ってみたいわ~」
「今日ここに来たなら、盛り上がるのになぁ。隊長、サプライズないの?」
「隊長が1番驚いて、隊長のがハートになったりしてな!」

大きな笑いが起こった。

私は、前回、前々回と2回連続で『ゆ会』の飲み会に参加できなかった。その反動もあってか、今日はみんな、いつも以上にテンションが高い。

「そのときのメンバーって、今日参加してます?」

「うん、もちろん来てる。あの辺にいるのが、そのときのメンバーだよ」

「あ、あの美人って、もしかして?」と、田代さんの奥さんが言った。
「え、どこ、どこ?」と、ご主人が食いつき、奥さんに「ったく」と睨まれた。

「そう! 染谷さん! チップを最初に渡した人。でも、美人に鼻の下を伸ばしていると、奥さんに逃げられちゃいますよ」と、私は言った。

「ホント、男の人って、美人に弱くてねぇ~」と田代さんの奥さんが言った。

「でね、このロンドンでの話は、まだ続きがあるんです」

「続き?」
「なになに?」
「なんだろう?」

「ブラウンさんがバスの運転手仲間に、私たちとのアレやコレやを自慢しちゃったの。だから、ロンドン観光バスの運転手仲間に、ワ~ッと広がっちゃって、巡り巡って、ウチの会社にバレちゃったのよ! 私が勝手に、スーパーに寄らしちゃったことが!」

「あちゃー!」
「ええ? それってダメなの~?」

「ツアーって、鉄の掟があってね。それが『予定通り』なの。だから、会社から小言を言われたさ~」

「たぶん大目玉だよ。大目玉を喰らっても、それが、隊長には小言程度なんだな。おそらく、そうでしょ?」

「正解! よく分かりましたね、さすが。ササッと始末書も書きました。そもそも私は、初めてのツアーでも…、あっ、それは国内ツアーだったんだけどね。その初めてのツアーでも、先輩の言いつけを、たった”3秒”で破ったからね! そんな私が、ロンドンのあの異常事態の中で、ルールなんかに縛られるワケないのよ。あんなトラブル、予定通りになるワケないんだから」

「ハハハ~! 肝が据わっているなぁ」
「隊長~! さすがです!」

「でもね、小言を言われて、少しワジワジしたからさ~。会社ではブラウンさんを、“日本製のお菓子”で説得したんじゃなくて、”私の魅力”で説得に成功したって、ちょっと創作して説明しちゃった!」

「ハハハ~! 隊長~、それ最高~!」
「メッチャ捏造~!」

「会社の上司たちはさぁ、私に会うと『お前は色気が足らない』とか、いつもうるさいから、『英国紳士にはストライクだったみたいですよ』って、言ってやったさ~」

「ワハハ~!」
「受ける~!」
「おもしろ~い!」

私のトークは軽快だった。これまで別のテーブルでも同じことを語っていて、語るたびにトークが磨かれていった。この話は、これまでにスナック『縁』でも披露したし、方々で語っていて、もう、鉄板ネタになりつつあった。

まだまだ、回るテーブルはたくさんある。最近の『ゆ会』は毎回参加者が多く、隊長の私が席を移動するのは恒例となっていた。

みんな、私と話したいと言ってくれる。もちろん、私も、みんなと語り合いたかった。
斜め前の島のテーブルには、瀬戸さん夫婦がいた。私よりは年上だが『ゆ会』の中では、その若さが目立っていた。

2人は、肩を寄せ合い、時に見つめ合って、とてもラブラブだった。

一方、50代や60代のご夫婦には、いたわりや、思いやりや、良い意味でのあきらめや、信頼のようなものを感じた。もしかしたら、そのようなものが、本当の「愛」なのかもしれない。最近、そんなことを思う。

若い自分や、瀬戸さん夫婦は、「好き」や「大好き」であって、もしかするとそれは、本当の「愛」とは違うのかもしれない。

愛って、きっと最初は、ないんじゃないかな。好きという気持ちを育てて、愛に変えてゆくものなのかな。そう思った。

ダダ、ダ、ダダ♪
♪タン~、タタン♪ ♪タン~、タタン♪ ♪タン~、タンタンタン~♪ ポン♪
♪タン~、タタン♪ ♪タン~、タタン♪ ♪タン~、タンタンタン~♪ ポン♪

また、私の携帯が鳴った。今度は、いつもの『島人ぬ宝』だった。

「はい! 私で~す。今終わったの~? 了解で~す。いや、まだまだ始まったばかりですよ~。は~い、待ってますね~」

電話を切った私は、瀬戸さんを探した。瀬戸さん夫妻は、少し離れたテーブルにいた。

「私、テーブル移動するね」

「ええ? 隊長、行っちゃうの~」
「もっと話を聞きたいわ~」

「また、回って来るからさ~。あっ! 瀬戸さ~ん!」と、私は立ち上がって、瀬戸さんに手を振った。

「またね」と言って、このテーブルを離れた。
瀬戸さんも、声が届いたらしく近づいてきてくれた。

「佐々木さん、あと10分くらいで着くって、今、電話があったの」と伝えた。

「分かりました。佐々木さんが来たとき見えやすい、僕、あっちに移動しておきます」

「ありがとう」

「隊長は、次はどの島に行きますか?」

「あそこに行く。順番に回らないと分からなくなっちゃうからね」

「了解しました」と瀬戸さんは言った。瀬戸さんはハイボールのフリをして、ウーロン茶の炭酸割を飲んでいる。幹事として、いつも大車輪の働きなのだ。

今夜は、この現状を佐々木さんに見てもらって、今後の『ゆ会』についてアドバイスをもらうのだと、瀬戸さんが言っていた。
瀬戸さんは、『ゆ会』の幹事を、無償で行なっていて、私は、ず~っと心苦しかった。

「僕たちが勝手にやっていることなので、隊長は、何も気にしなくてイイんです」と、瀬戸さんもむっちゃんも言ってくれるけど、でも、ず~っと甘えるワケにもゆかない。

ありがたいやら、申し訳ないやら。私は、佐々木さんを呼んで良かったと思った。

分からないときは素直に聞く。もう、それしかなかった。むしろ、相談が遅かったと反省した。


3.佐々木 ひまりの魅力に圧倒される


吐く息が、ハッキリと白くなった。私は、マフラーを忘れたことを悔やんだ。
師走だからか、それとも寒さが理由なのか、すれ違う誰もが急いでいるように見える。

目的の居酒屋の看板が見えた。腕時計で時刻を確認すると、19時30分を過ぎていた。

玄関は、ガラスの引き戸で、ガラガラと、懐かしい昭和の音をたてた。

「っらっしゃい!」という職人らしい掛け声と、「いらっしゃいませ~」という、やわらかな若い女性アルバイトの声が同時に飛んできて、飲食店は、こうじゃなくっちゃと嬉しくなった。

お座敷は奥にあると前もって聞いていたので、テーブル席を縫って、奥へと進んだ。お座敷はすぐに分かったが、もの凄い人数での大宴会が行なわれている。

本当に、このグループなのだろうか。そう考え右往左往していたら、「佐々木さんですか?」と、声をかけられた。

「そうです。佐々木です。あ、瀬戸さん、ですか?」

「そうです。幹事の瀬戸です。外は寒かったでしょう。どうぞ、どうぞ。ここに席を作ってありますので」と、テーブルの一角を示してくれた。店員がおしぼりを手に、待機していたので、「とりあえず、生、1つ」と注文をした。

「今日は、ありがとうございます」と瀬戸さんが言った。

私は、「凄い人数ですね。いったい何人が集まったのですか?」と聞かずにはいられなかった。

「63人です。隊長を入れると64人ですね」と、瀬戸さんは即答した。

「63人! だって、全員、ひまりさんのツアー客ですよね?」
「そうです。隊長のツアーに参加すると、だいたい9割の方が『ゆ会』に参加します。だから、メンバー数が凄いことになっていて」

「9割?」と、私の声は裏返っていた。
そこにタイミングよく、生ビールが届いた。

瀬戸さんは、同じテーブルのメンバーに、私を紹介してくれて、そのテーブルの面々だけで軽く乾杯がなされた。私は、サラダやお刺身をいただき、ビールを飲んだ。

そして思った。

こんな状況は、想像を遥かに超えている。アイドルとか著名人ならともかく、世間的には無名の、たった1人のツアーコンダクターを慕う人たちの忘年会なのだ。
参加者も、みんな分別のある大人なのだ。50代、60代が圧倒的に多い。男女比では、やや女性が多かった。

ひまりさんを“女性”として、恋心を抱き近づく男性も多少はいるのだろうが、この状況をザ~っと見ただけで、ツアーコンダクターの、つまり“隊長”の魅力で、これだけのファンが集まったのだと分かった。

大企業の管理職が忘年会を開催しても、これだけの人数が集まるとは思えない。ゴマをする為だったり、出世に響かないように損得のソロバンを弾き、笑顔の仮面をつけて参加するのが、サラリーマンの忘年会だ。

しかし、この『ゆ会』は、完全なる自由参加なのだ。

こんなにも、ひまりさんに「会いたい」と思い行動する人がいるとは。
この光景は現実なのか?
ひまりさんの、人としての魅力、ツアーコンダクターとしての魅力、その凄さに圧倒された。

この光景は、それ以外にない。

「佐々木さん、これって、隊長の財産だと思いませんか?」と、私の心を読んだかのように、瀬戸さんに声をかけられた。

我に返り、「確かに。単なるファンクラブで、宴会をするだけじゃ勿体ないですね」と答えたが、まだ私は、座布団に尻につかない浮遊感の中にいた。

「でも、瀬戸さん。瀬戸さんの『ゆ会』での活動って、完全にボランティアなのでしょ?」と、聞き返した。

「そんなのは、全然。そもそも、隊長が作りたくって生まれたんじゃなく、僕たちが作りたくて、勝手に作った会ですから」

「瀬戸さんはそう言うって、ひまりさんから聞いていますよ。でも、何か考えないと、この人数は、1人や2人で管理できるキャパを、遥かに超えていますよ」と、私は言った。そして同時に、簡単に解決案は出ないことも悟ってもいた。

そこに、ひまりさんがやって来た。

「佐々木さん、来てたの~?」と、いつもの弾ける笑顔を見せてくれた。

「今着いたところ。ひまりさん、あいや、隊長、スゴイね~、この人数は! 大盛り上がりだね~!」

「でしょう! もう、みんなに頭が上がらないさ~。で、瀬戸さん、相談があるんでしょ?」

「あ、はい。佐々木さん、良かったらこの宴会の後、僕と佐々木さんだけでミーティングさせて欲しいんです。この現状は、言葉で説明するよりも見てもらった方がイイと思って、お招きしました。その上で、色々と運営の効率化とか、問題点の解決案とかを、ぜひアドバイスいただきたいのです」

「もちろん、私は大丈夫です。ここからは、ちょっとお酒を控えて、ウーロン茶に変えますね」

「いえいえ、どうぞ飲んでください」

「そういうワケにはいかないな。これは、かなりの難題だから」と、私は言った。

「私も相談があるから、そのミーティングに…」と、ひまりさんが言った。
ひまりさんが最後まで言えなかったのは、瀬戸さんが言葉を被せたからだった。

「ミーティングは、僕たち2人だけでやります。実は、隊長に内緒で相談したいこともあるんです。サプライズ企画を考えていて。だから隊長、今回はごめんなさい」と。

そう言って、瀬戸さんは頭を下げて、拝むポーズをした。

「ええ~? サプライズ~? なら参加できないか~」と、ひまりさんは渋々あきらめたようだった。

「じゃあ、佐々木さんには後でメールしますから、ミーティングの前に読んでくださいね」と、ひまりさんは言った。

隊長の用事が済むことを、首を長くして待っていたテーブルのメンバーたちが、「隊長」「隊長」と話しかけた。

「隊長、なに飲んでるの?」「飲むのある?」と、みんなが世話を焼く。

「隊長、ロンドンで、テロに遭ったの?」
「大変だったって、ウワサで聞いたよ」

「そうなの。テロには遭ってないけど、大変だったのよ~」と、喜々とした表情で、ひまりさんは語り出した。

ひまりさんは、ほぼ100%、自分をさらけ出している。
ウソも計算もない。
ウソや計算があったとしても、それは100%隊員の為のウソや計算のはずだ。

そういうことが、伝わってくる。
語って説明などしなくても、それでも、ちゃんと漏れ、溢れ、漂っている。

私は、すごいなぁと、あらためて思った。


* * *


宴会が終わり、私も店の外に出た。すぐに帰る人たちもいたし、気の合う仲間と雑談する人たちもいた。
ひまりさんの周りには、1番大きな人だかりができてている。

『ゆ会』は、2次会が禁止なのだという。

参加できる人と、参加したいのに——つまり、まだ隊長と一緒にいたいのに——事情があって帰らざるを得ない人と、不公平ではないかという意見があり、なんだかんだと話し合って、2次会は禁止となったらしい。

隊長のひまりさんを含まない2次会は、それは『ゆ会』ではなく、気の合う者同士の単なる飲み会だという解釈で、自由らしい。

私は、不公平だからという理由は、きっと半分にすぎないだろうと推理した。
もう半分は、隊長の、ひまりさんの負担を軽くすることが目的なはずだ。

ひまりさんが、寝る間もなく働いていることを、瀬戸さんはじめ、多くのメンバーが知っていたし、心配の声も上がっているらしかった。

私と、隣にいた瀬戸さんと、なんとなく駅の方へ歩き出していた。

「どこでミーティングしますか?」と瀬戸さんが聞いてきた。瀬戸さんの隣には、チャームングな奥さんがピッタリと寄り添い歩いている。

私たちは、駅近くの喫茶店に入ることにした。そのとき、私の携帯電話の通知音が鳴った。ひまりさんからのメールだった。私は、歩みを遅くして、メールを読んだ。

このまえ、ゆ会のメンバー2人が軽い、言い争いをしちゃったの。
詳しくは瀬戸さんやむっちゃんに聞いて下さい。

私は、ゆ会のメンバーとは恋愛禁止という掟を作りました。
これは、ゆ会のみんなに発表した方がイイのかな?
それとも、発表は要らないかな?

佐々木さんの考えが聞きたいです。

じゃあ、ミーティング、お願いします。
いつもありがとうございます!

「瀬戸さん」と、私は先を歩く2人に声をかけた。
2人が、歩みを止めてくれた。

追いついた私は、「そういえば、さっき瀬戸さんが言っていた、サプライズの相談って、どんな内容ですか?」と質問した。「簡単なら、歩きながら聞こうかと思って」と付け加えて言った。

瀬戸さんは、「あれは方便です」と答えてくれた。「ああ言わないと、隊長は帰ってくれないと思ったんです。このミーティングに出るって、そう言い張ることが予想できたので、あのように言っちゃいました」と、想像通りの答えだった。

私は、「じゃあ、ケンカの相談ではないんですね」と、話を進めた。

「ケンカ?」と、瀬戸さんが聞いた。
「ほら、○○さんと××さんが、言い争いになっちゃったじゃない」と、奥さんが言って、瀬戸さんも思い至ったようだ。

「ああ。隊長に交際を申し込んだ男性がいて、他の男性が、そんなことを言うなとか…。まあ、ちょっと揉めちゃったんです」
「××さんも、隊長のこと、好きなんだよね」

「そうなの?」
「分かりやすく、バレバレだったと思うけど…」

「なるほど」と、私は言った。
おそらく、これから入る喫茶店でのミーティングは、30分では終わらない。

私は、二日酔いを考慮し、明日の午前中に予定を入れていなかったことを思い出した。
これは神様が、トコトン付き合ってやれ、と言っているのだろう。

ちょうど、目指していたビルに辿り着いた。このビルの2階に談話室があるのだ。

私たちは階段を上がった。


4.ひまり 「ひたむき」と「複利」

私は、ひばりが丘駅を出て、スナック『えん』に向かって歩いた。

電車の中では、瀬戸さんと佐々木さんとのミーティングに参加できなくて、ワジワジしていたが、今、私の足取りはなぜか軽かった。
この時間なら、久しぶりにママたちと思う存分おしゃべりができる。だから、私の足取りは軽く弾んでいたのかと思い至って、私はひとりで苦笑いした。

『ゆ会』の問題は、一旦、忘れてしまおう。私が考えるより、瀬戸さんと佐々木さんが考えた方が、良い案が出るに決まっている。

私は、スナック『えん』の、重い木製ドアを引いた。カランカランと、カウベルが、いつもの愛おしい音で、来店を歓迎してくれた。

「ただいま~!」と声をかけた。

「ひがちゃん、お帰り~」「お帰り~」「おお、お帰り~」と、ママと、アイちゃんと、大城さんが言ってくれた。小松さんも、定位置のカウンター左端にいて、私にチラッと視線を向けてくれた。

ツアーを終えて日本に帰ると、自然にリラックスできる。そして、『縁』に来て「ひがちゃん」と呼ばれると、さらに肩の荷が下りた。

ひとり、アパートの部屋に帰ると、つい仕事のことを考えがちだから、もしかしたら、ここは、私が1番リラックスできる場所なのかもしれない。

「あら? ザルのひがちゃんが、少し酔っているのかしら?」と、ママが言った。

「忘年会だっだの~。ちょっと飲みすぎたかな? ママ、これ、お土産~」

「いつもありがとう。今回は、…イタリアだったわね」

「そう。ローマ、ベネチア、ミラノの10日間ツアー。あ、チョコはみんなにもお願いね。トリュフ塩は、良かったらぜひ、お料理に使ってみて~」

「ありがと~。小松さん。ひがちゃんからのお土産、小松さんの好物のチョコよ。アイちゃん、ひがちゃんからチョコ、頂いたから、大城さんの分も一緒に取りに来て~」と、ママが言った。

BOX席から「は~い」というアイちゃんの声と、「いつもありがとう」という大城さんの声が聞こえた。

「どういたしましてぃ~」と、私は言った。

小松さんも、「いつも悪いな」と言って、さっそくバッチチョコを1つ頬張った。そして、「旨い」と言って目を丸くした。

私は、いつもより少し薄めの炭酸割を作った。ステアは1回だけ、そ~っと行なった。

「あ~っ! でーじ、まーさん!」と、本音が声となって出た。ここは、標準語を意識する必要がない。リラックスできるワケだ。

「忘年会はどうだったの?」と、ママが聞いた。

「大盛り上がり! 過去最高の63人が集まったの~」と私は答えた。

「へぇ、63人は凄いなぁ」と、小松さんが言う。

「あ、そうだ」と、私は言った。「小松さん、ちょっと、教えてほしいことがあったの」

「東大卒フリーライターの頭脳は、使わないと勿体ないから。どんどん使いましょ。私も何でも聞いちゃってるし」と、ママが後押ししてくれた。

「なんだ」と、小松さんが言った。いつものように、面倒くさいなぁという顔をしていた。でも、私はもうこの表情にも慣れていたし、実は小松さんって、教えてって言われるのは嫌いじゃないのかもしれない。そう感じることも何度かあったから。

「まずね、イギリス人に『you are dedicated』って言われたら、小松さんなら、なんって訳します? 『あなたは繊細だ』…じゃ、ないですよね?」

「Dedicatedなら、ひたむき、じゃないかな」

「だからさ~。じゃあね、ここからが本当に聞きたいことなんだけど~。日本語で『ひたすら』と『ひたむき』って、似ているでしょ? でも、同じ意味ではないと思うの? この『ひたすら』と『ひたむき』違いを、ちゃんと知りたいなぁって思って」

「なるほど。おそらく辞書的な違いを知りたいということではなく、ひがちゃんが肚落ちできる。そんな説明を求めているんだな」

「さすがさ~。1言っただけで10わかってくれてさ~。嬉しい~」

「オレが思うに、『ひたすら』には、行動100%というイメージがある。『ただひたすらに働いた』とか、『ひたすら走った』とかさ。あと、無心というイメージもある」

「ふ~ん」と、私とママは相槌でハモってしまい、2人で少し笑った。

小松さんは説明を続けた。
「それに対し『ひたむき』は、心がプラスされている。確か、Dedicatedは献身的とか、捧げる、尽くす、といった意味もあったと思う。『ひたすら』が行動100%としたなら、『ひたむき』は行動50%、想い50%。そういう感じだ。辞書的には、少し違っているかもしれないが、オレの解釈はそんなところだな」

「すごーい! メッチャ分かりやすい!」と、私より先にママが言った。

私は、「もう~。私が言いたいこと、先に言われちゃったさ~」と言って、また私たちは笑い合った。

「小松さん、ありがとう。スッキリしたわ~」と、私は改めてお礼を言った。

小松さんが、何か聞きたそうな表情を見せたが、ママの「英語で思い出した」という発言に、その表情は引っ込められた。

「英語で、仕事中毒のことをワーカーホリックって言うみたいよ。TVで『問題だ』って言ってたわ。ひがちゃんの働き過ぎは良くないって、やはり私、そう思ったのよ~」

「そんなことは、40代や50代になってから考えればイイさ」と、小松さんが言った。

「だって、ひがちゃんは去年だって、倒れて入院したじゃない?」と、ママが言った。

「完全なる過労だった、らしいな」と、小松さんが私を見て言った。その目は笑っていた。

私は、「あれは、会社の上司と、お医者さんが大げさだったの。ちょっと休めば、全然大丈夫だったのよ~。精密検査でも悪い所なんて、どこもなかったしね」と言った。

ママは、「過労で倒れるって、よっぽどのことよ~」と言う。

小松さんが、「ママは、複利の話って聞いたことあるかい?」と、唐突に話題を変えた。

「え? 複利の話って、今の話に関係あるの?」と、ママが確認した。私も同じことを思っていた。

「関係あるんだよ」と小松さんは言って、「ママ。ひがちゃん。複利って、ちゃんと説明できるかい?」と、私たちに質問した。

「聞いたことはあるけど、ちゃんとって言われると…」とママ。
「同じ~」と私。

「金利には、単利と複利がある。例えば、郵便局に100万円預けたとする。この100万円は、元本がんぽんというよね。話を分かりやすくするために、1年間で10%の利息が付くとする。ひがちゃん、利息はいくらになるかな?」

「10%だから、10万円?」

「そうだ。次の年も年利10%だとする。ママ、いくらもらえる?」

「同じだから、10万円でしょ」

「正解。今のが単利だ。元本が100万円で、1年目の利息が10万円。2年目も10万円。元本と利息を合計すると、丸2年預けたなら120万円になっている。3年なら130万円だ。だが、複利は違う。 1年目は同じ10万円の利息が付くが、2年目は、元本100万円と利息10万円の合計110万円に利息が付くんだ。ひがちゃん、その場合、2年目の利息はいくらになる?」

「え~。110万円の10%でしょ。11万円、で合ってるよね?」

「そうだ。元本と利息の合計が121万円になった。1万円多い。さらに翌年はどうだろうか。単利なら、また10万円で、元利合計は130万円だ。複利は、121万円の10%が加算されるから、121+12万1千円で、133万1千円。3万1千円多くなる」

「利息にも利息が付くのね?」とママが言った。

「そう。それが単利と複利の違いだ。2年目は1万円、3年目は2万1千円という差額だが、複利のパワーは年を重ねるとドンドン大きくなる」

「でしょうね」とママ。
「うん、ここまではチャンと分かった」と私。

「そのパワーは、思っている以上に大きいんだ。アメリカには、こんな例え話がある」と小松さんは言って、私を見て、それからママを見た。

例え話は、こういう内容だった。

少年のジャックは、姉のジルと遊んでいたときに、頭にケガを負った。
その結果、大学に進学することができなかった。ジャックは18歳から働き始め、毎年50万円ずつ積立投資を始めた。18歳から26歳までの8年間だけ積立投資を行ない、そのあとは積立をやめ、投資口座はそのまま放置し、運用だけは続けた。
投資金額は、合計400万円。

一方、姉のジルは、弟のケガを防げなかった罪の意識から医者を志し、医大へ進学した。
26歳になって働き始めると、毎年50万円ずつ積立投資を始めた。年間の投資金額は、弟のジャックと同額。ジルは26歳から65歳まで、実に40年間も積立投資を続けた。
ジルの投資金額は、合計2000万円となった。

弟ジャックと姉のジルは、全く同じ投資商品に積立をしていたから、投資利回りは、全く同じだった。

違いは、弟は18歳のときから積立投資を始め、姉は26歳のときから積立投資を始めたという、投資の開始年齢だけだ。

年利は、説明を分かりやすくするために10%だったとして説明を続ける。

弟のジャックが投資したのは18歳から26歳の8年間で、計400万円。
姉のジルが投資したのは26歳から65歳の40年間で、計2000万円。

それぞれの65歳時点で、弟ジャックと姉のジル、どっちの資産が多いか。

こんな聞き方をしているから想像できたと思うが、資産額が多いのは弟のジャックなのだ。

65歳時点で、ジャックの投資口座には2億5878万円。
65歳時点で、ジルの投資口座は2億2129万円。
その差額は、3700万円以上。

仮に姉のジルが、毎年50万円の積立投資を生涯継続した場合でも、弟の資産額を逆転することはない。

「要するに、時間の差を埋め、逆転することは不可能なんだ。姉のジルより8歳若い時に投資を始めた。ただこれだけで、ジャックは圧倒的なアドバンテージを得たんだよ。時間を味方にできたのさ」と、小松さんは言った。

「複利って凄いのねぇ」とママ。
「だからさ~。40年間の積み立てに、たった8年が勝つなんて…」と私は言った。

「仕事の努力は複利なんだ」

「ああ、そうそう。仕事中毒の話をしていたのよね」とママが言った。
「そうだったさ~」

「20代のときに努力した者は、30代になるとそれまでの努力がリセットされるワケじゃないだろ。それまでに努力をして得た知見がある。その能力を持ったままで、また、30代で努力をするんだよ。
 20代で鍛えた吸収力もある。いくつかのコツも体得してある。30歳の時点で、20代を平々凡々と過ごした人間とは、脳や心のレベルが違うのさ。そして、また努力する。すでに努力することには慣れてもいる。そして、新たな経験をし、新たな人とも出会う。
 例えば、金や人脈や仕事をたくさん抱えている50代60代の経営者がいたとして…。20代を平々凡々に過ごした普通の30歳の青年と、20代を何かに没頭し、ガムシャラな努力を重ねた、そんな30歳の青年とを見分けられないと思うか?
 つまり、チャンスに恵まれる量や確率さえも変わってしまうんだ。『類は友を呼ぶ』って本当でね、努力を努力とも思わずに重ね続けた人間の周りには、そういう人間が集まるものさ。そして、周りの人から良い刺激を受け、時には切磋琢磨し、時には協力し合う。
 逆も真なりで、仕事のグチや不平不満を言っている人間の周りには、そんな人間しか集まらない。
 つまり、差はドンドン開く一方で、2度と逆転なんかできやしない。年を重ねてから成功したと言われるアンパンマンの作者も、ケンタッキーの創業者も、彼らは若い時に努力を重ね、結果も出しているんだよ」

小松さんは、お水を飲んだ。そして、私と目を合わせた。

「20代で、何かに、ひたすら打ち込む者は、ごくごく僅かだ。まして、『ひたすら』から『ひたむき』に次元上昇できる20代なんて、そんな若者は滅多にいない」

小松さんは、「お、今のイイなぁ」と自画自賛して、メモ帳を出して何かを書き留めた。左利きなので、いつも手帳を90度近く傾けて書くのが小松さんの特徴だった。

「なるほどねぇ」と、ママが感嘆の声を漏らした。

「ママも、そしてママが惹かれ結婚した元祖ひがちゃんも、20代のとき、頑張っていただろ?」と、小松さんは言った。

「確かに。あの人は、沖縄県出身というだけで、信じられない差別を受けたって、言ってたわ。それでも、あの明るさって、…スゴイし、確かに私だって、若いときは、苦労を苦労とも思わず頑張っていたかもしれないわ」

「ママが美しいのは、そういうことか~」と、私は、ポロリと本音をこぼしていた。ママは容姿端麗なだけではなく、立ち居振る舞いも、そして何よりも優しかった。

私には、ママのような美しさは、どう頑張っても身に付くとは思えなかったけど、あきらめつつ、そして、憧れ続けていた。

「あら、ひがちゃん。お世辞でも嬉しいわ」

「お世辞じゃないさ~。私、本音しか言えないもん。小松さん。小松さんもなんかさ、凄まじい20代だったんじゃない? 私、そんな気がするさ~」

「狂う手前まで仕事をした」と、小松さんはボソリと言った。

ママが、「刑事のフリして聞き込みとか、張り込みとかもしたんだって。そこまでしないと、ノンフィクションの大賞は、……取れないわよねぇ」と言った。

小松さんは、「取材だ、取材。刑事だとウソを言ったこともない。相手が勝手に勘違いしたのは、それはオレの問題ではない」と言った。

小松さんが、「ただな」と、私の目を見て言った。
「ただな、健康には気を使え。入院すると、ママや大城さんが心配する」と、少し怖い眼で私を見て言った。

「前回の入院、小松さんが1番心配してたと思うけど? ひがちゃん、愛されてますねぇ~」と、ママは、私と小松さんを同時に茶化した。

私は、そんな茶化しには、逆に乗っかることにしている。「そうなの? 嬉しいさ~」と、この時も乗っかってみた。「じゃあ、小松さんにお礼で、カラオケ入れてあげる。アレ 歌って! 聞きたかったんだ~」と言って、私はデンモクを操作した。

「それの、どこがお礼なんだ」という小松さんの言葉は、聞こえなかったことにして、「大城さん、アイちゃん、『島人ぬ宝』入れたから、合いの手、お願いね~」と、BOX席に声をかけた。

ママの旦那さん、つまり元祖ひがちゃんの十八番で、このお店では『島人ぬ宝』がかかったなら、ほぼ全員が歌い出すのだった。

指笛が鳴り、「いーやーさーさー」の掛け声が入るのだ。





第4章につづく


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