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第344話 アドラー心理学の実践は、もの凄く難しい訳で(ちょっと前のケンカ その4)


昨日の記事を読んで、ゆかりちゃんは、

スクショにを付けて、

「頑張って👍」

というLINEをくれた。


(大声、怒り、これは、安直なコミュニケーションだ!)
(おまえは、まだ、自律できないのか⁉)
(また、大声や理屈で、ゆかりちゃんをコントロールしようとするのか!)
 リトルじょーじが叫ぶ。

ここ ↑ に、されていた。


僕のnoteを読んでくれて、

こうして、感想までくれる。メッチャありがたい。


さて、

昨日の続きだ。

その4 だ。

この連載ドキュメンタリーは、今日が最終話だ。


◆ここまでのあらすじ

じょーじ「note 書いたよ~^^」と言い、「感想は~?」と聞く
     ↓
ゆかり 超絶ウゼェ、これだけ睨んでんだから、いい加減に察しろよと思う
     ↓
じょーじ 配慮しているつもりも、結局「読んで」という
     ↓
ゆかり まったりと、くつろいでいるところに、1番聞きたくないセリフをぶっ込まれ、冷たい視線になる
     ↓
じょーじ アイルトンセナより速いスクロールを見て、さらには冒頭と〆に触れてもらえず、ブラジルの手前まで落ち込む
     ↓
ゆかり 貴重なリラックスタイムなのに、「ひろみちゃんに珈琲を飲ませたい」と、重ねて面倒なことを言うから、冷たい視線に、あざ笑いも加える
     ↓
じょーじ リトルじょーじの警告を無視して、ゆかりちゃんを大声で非難し、結果、リトルじょーじに寝室へと強制連行される

こういう感じだ。


◆寝室にて

僕は、ベッドに入るも、カッカして、全然、眠れなかった。

(感想を聞く途中だったから、明日の記事の、冒頭が書けないなぁ)などと、まだ、この期に及んで、そんなことを思ったりした。

このままだと、明日もまた、怒りがあふれ出そうだ。

なにより、睡眠不足になる。

ちゃんと、冷静に説明しよう。

そう思って、僕は、行動を起こした。

リトルじょーじは『ちゃんと、冷静に説明しよう』という、じょーじの考えを、ほぼ信用していない。

つまり、臨戦態勢は解かずに、警戒を続けていた。



僕は、リビングのゆかりちゃんのところへ行って、説明した。

僕は、冒頭と〆に触れてもらえず、「悲しい」と訴えた。

また、あんな(アイルトンセナより)速いスクロールは「酷い」と、非難した。

明日の記事のために感想を聞くことが、「そこまで罪なのか」と、責めた。


話しているうちに、僕は、

( 怒りをぶつけているだけだ )

という、リトルじょーじの声に気づいた。


ゆかりちゃんの非を、冷静に説明するつもりで、寝室から出てきた。

それが徐々に、いや、一気に、

説明 → 非難 → 責め → 怒りをぶつける、と、

声こそ大きくしないようにと気をつけてはいるが、結局、怒っている。


(あれ?)と思い。

(まずい!)と思って、

「寝ます。おやすみ」と言って、再度、寝室へ逃げた。


◆再度、寝室にて

ベッドに入り、

(あれ? 結局、また、怒ってた・・・)

と思って、自己嫌悪した。

また怒ったことは、自分が悪いと思うのだが、でも、なぜかメッチャ悔しかった。


僕は、泣きそうになった。

泣きそうなほどに悲しいことに、僕は、驚いた。


悔しくって、そして、悲しかった。

声を上げて泣きたかった。

こらえたけど、悔しさが止まらなかった。


◆ほぼほぼ、初体験

ケンカして、悔しくて泣いたのは、幼少期だけだ。

小学校の高学年以降、僕は、ケンカした後に悲しくなったことがない。ケンカした後の僕には、いつも【怒り(いかり)】しかなかった。

1.ケンカ後 → 腹立つ!
2.ケンカ後 → 頭くる!
3.ケンカ後 → 憤慨する!
4.ケンカ後 → 議論の検証 → やはり自分が正しい → 憤慨する!

この4パターンしか、僕にはなかった。あり得なかった。

僕は、【僕が100%正しい】と思っていたので、公憤に近い憤りしか、抱かなかったのだろう。


『反応しない練習』や『嫌われる勇気』などのおかげで、僕が正しいとは限らないことと、相手は自分が正しいと思っていることと、人の数だけ正しさがあることなどを知った。

その影響なのだろう。

ケンカのあと、ほぼほぼ初めて、悲しくて・・・。

僕は、その、「悲しい」ということに、本当に驚いたのだ。


◆こんなにも悲しいのか

相手の意見も尊重しようとする人は、ケンカしたとき、こんなにも悲しくなるものなのか。

こんなにも、悔しい思いをするのか。

そして、悔しいけど、それを相手に、ぶつけられないのか。

スッキリするなんて、できないのか。


・・・。


あっ。

過去の、僕に、一方的に論破されるだけだった、ゆかりちゃん・・・。

こんなにも・・・、

いや、これ以上に、悔しかったんだ・・・。

これ以上に、悲しかったんだ・・・。

僕は、ゆかりちゃんを、こんなにも辛い目に・・・、

しかも、何度も、こんな目に、させてたのか・・・。


僕は、怒るだけ怒って、僕だけはスッキリしていて・・・、

でも、ゆかりちゃんは、こんなにも悔しくて、

それを、僕に言うと、【言葉の暴力】を【10倍返し】で、食らうことになるから、まったく言えなくて・・・。

我慢の1択しかなくて・・・。


・・・めっちゃ悔しかっただろうなぁ。

・・・これは、尋常ではない、悔しさと、そして、悲しさじゃないか。


◆謝罪

ゆかりちゃんに、謝りに行った。

ゆかりちゃんは、もうリビングにいなかった。

寝室だ。まだ明かりが点いている。

ノックして、少しドアを開けて、「ごめん。僕も悪かった」と、確か、そんなことを言った。

今日のこともそうだが、僕の本当の本心は、僕の過去を謝りたかった。


またまた、僕は、自分のベッドに入った。

そしてまた、泣きそうになった。

今度は、情けなかったのだ。

カーネギーの『人を動かす』を聴きなおして、アドラーも聴いて、反応しない練習も聴いて、そして、全然、実行できない・・・。

情けない・・・。


わかってほしいのに、わかってもらえない。

そして、「わかってもらうこと」は、強要できない。

それが、これほどにまで悔しくて、悲しいことなんだ・・・。

知らなかった。

ほぼほぼ、はじめての体験だった。


◆アドラー心理学で、自己分析

僕は、議論や口論を『売る』ことはない。

ただ、売られると『即、買う』ようだ。

そして、買ったら最後、当初の議論の目的をそっちのけで、相手を言い負かそうとする。

バトルモードに、即、入る。これは、悪癖だ。


アドラー心理学で、僕を分析すると、

僕は、もの心ついたときにはすでに、対人関係とは、【競争】【勝ち負け】【上下】という、ライフスタイルだった。

勝つことが正義だった。

約、50年間、そのライフスタイルで生きてきた。

アドラーは、「ならば、あなたにとって、あなたの周りの人は【敵】でしたね」と、「大事な妻でさえ【敵】なのですね」と指摘するだろう。

僕の周りには、【敵】か【イエスマン】しか、いない。僕は、そういうライフスタイルを選択していたのだ。


今、僕は、

・【上下】ではなく【横】の関係
「違っているけど対等」という関係
・「競争」ではなく「協力」という関係

・「みんな仲間」という関係

と、このように、ライフスタイルを変更しようとしている。


知るは易し。

言うも易し。

行なうが難し。

54歳の、挑戦なのだ。

「【今日】が人生で1番若い日」だ。(by 両学長のセリフ)

コツコツと、努力を続けよう。


◆〆

おかしいなあ。

尊重村に住んでると思ってたのになぁ~。

傲慢村って、メッチャ広いんかなぁ~。

で、尊重村って、メッチャ狭いのか?


でも、あの冷たい視線・・・。

あれは、メイドイン傲慢村ではなかったか?


僕は、そんなゆかりちゃんが大好きなのだ。一緒に尊重村を探すのだ。






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