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大國魂神社と坪宮

本日は、府中「大國魂神社」にお参りしてきた。時期が遅れてしまったけど形代流しでお清めして、府中の老舗レストランで直会、その後、大國魂の摂社「坪宮」にお参りした。「坪宮」は府中では大変な神社だ。お参りできてよかった。

ここ数年、神社に行ったりしても、FBにさらっと記事を書いておわりにしてしまいnoteにはアップしないことが多い。noteは参考文献も上げてかなりきちんとした記事を書かないと〜、というプレッシャーがあるからだ。でも、それだと一生記事書かないので、FBにアップした簡単な記事をアップしていくことにしたい。前置きが長くなってしまったが本題へ。

「大國魂神社」は言わずと知れた武蔵國の総社。由緒には、創立は景行天皇41年5月5日、武蔵国造が奉仕していたが大化の改新により武蔵国府がこの地に置かれてから、国造に変わって国司が奉仕するようになったとある。先日見た、たましん美術館での「大國魂神社」の宝物展では、「天穂日命(アメノホヒ)」の子孫が国造に命じられたと記載していたけど、「大國魂神社」のパンフにはそこは外してある。ホヒなのは書記にも書いてあり公開情報なのだけど。

出雲の口伝によると、ホヒは北九州からやってきた渡来系の部族で次第に古層の出雲族を乗っ取っていく。口伝の世界観では出雲国造の千家家はホヒの末裔である。そのホヒの子孫が武蔵国造に就任したということは、武蔵國には元々地元にいた豪族がいたはず。その豪族は、系図上はホヒの後裔になっている「兄多毛比命(エタモヒ)」。初代国造はエタモヒだ。名草地方ほど詳細には調べてないけど、おそらくホヒとエタモヒは無関係で、系図上ホヒを祖神にしているのは地元の豪族が支配下に置かれたからだろう。今日、参拝した「坪宮」は初代国造の兄多毛比命を祀るお宮だ。大國魂の宮司さんに聞いてみたら「坪宮」は境内にはなく、えらく離れた場所にある境外摂社だった。パンフを読むと、今でも大祭の時に御神体の入った神輿の渡御をする旨を「坪宮」に「奉告」してから、各神輿に奉幣の式を行うと記載されている。境外摂社になっているのは古層の神を境内から追い出してしまっている場合が大半なので、これもそうかと思ったのだけどお祭の様子を見ると「坪宮」が元のお宮で「大國魂神社」の方が後からできた可能性もある。民は「表向き」には国司に巻かれているけれど、内心はエタモヒを大事にしてきたのかもしれない。

こうしてみると、名草地方はかなり特殊だと思う。戸畔の記載はないけれど、名草姫名草彦を祀る「中言神社」は日前宮のど真ん中にある。紀氏系図には上の方に大名草彦と記載があり、名草と紀氏は問題なく繋がっている。紀氏はアカデミーな史学でも口伝でも古い豪族との見解でホヒのような新しい時代の部族ではない。伊太祁曽の国譲りがあるけれど、伊太祁曽も日前宮も紀氏の神社だ。紀氏から紀氏に譲っただけ。紀州人は自由でまとまりがないので個別にたくさんの紀氏集団がいただけだと思う。大きく分けると在地豪族として根付いた国造家とヤマトに進出した紀朝臣がいたということだ。こんな土地は他にはなかなかないと思う。

大國魂神社摂社 坪宮
境外摂社の坪宮に
「いちばんはじめ」の国府と。
大國魂神社パンフより
大國魂神社パンフより
形代流しの際に祓いをする御幣
形代を流す小川
府中の老舗レストラン、モナムール
着物沼の住人なのでいつも着物

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