紫式部日記第47話中務の宮わたりの御ことを御心に入れて、

(原文)
中務の宮わたりの御ことを御心に入れて、そなたの心寄せある人とおぼして、語らはせたまふも、まことに心のうちは思ひゐたること多かり。

※中務の宮:村上天皇第七皇子の具平親王。当時45歳。漢詩に優れ、和歌も「拾遺集」以下の勅撰集に41首入集。一条天皇期の文壇の中心人物。

※そなたの心寄せある人:具平親王家に関係が深い人の意味。
紫式部の父為時は、具平親王の旧僕(古くからの下僕)と自ら述べていおり、漢詩を通じて懇意な関係にあった。
尚、紫式部の夫宣孝も具平親王家の家司だったらしい。
その他、紫式部の従兄弟の養子が、具平親王の御落胤だった。
また、藤原道長は、長男頼道と、具平親王の娘隆姫女王との結婚を望んでいたことから、紫式部の影響力を期待していたのかもしれない。

(舞夢訳)
そのような慶事が続いている時なのですが、道長様は中務の宮家との件についても。実に熱心なのです。
そして、この私が宮家と特に関係が深いことを知られているので、様々あれこれと相談をかけて来られるのです。
私としては、そのような相談をされてはおりますが、実のところとして、内心では様々に思い込んでしまうことが多くありました。

少々、意訳をした。
また、派手な慶事の記述が続く中、実に微妙な文が入れてあるので、訳者なりに考えてみた。

自分の娘を中宮とし、その中宮が皇子を出産。
常識で考えて、これ以上の幸せは考えられないと思うけれど、道長の高貴な血筋を求める欲望は、留まることを知らない。
紫式部は、才人として知られ、また「源氏物語(当時は書きかけだったらしい)」の作者として知られていたけれど、道長がスカウトした本来の意図は、息子頼道と具平親王家の婚儀への影響力を期待していたのかもしれない。
そうでなければ、紫式部に相談をかけることもないのだから。

しかし、相談をかけられた紫式部としては、やはり喜べなかった。
あまりにも、道長の欲望が強過ぎる、あるいは自分は道長家の権勢を高めるための道具に過ぎないと思った。
ただし、それでも最高実力者で雇い主、しかも幸せの頂点にいる道長の機嫌を損ねるなど、とてもできることではない。
何しろ、少しでも、失敗をすれば、機嫌を損ねれば、自分はおろか、実家まで、どんな仕打ちを受けるかわからない。
それが、京都の社会に広まれば、どれほど「人のうわさ」の苦しみを味わうのか計り知れないし、京都を追い出されることなど、当然なのだから。

おそらく、それらを考えて、「まことに心のうちは思ひゐたること多かり」なのだと思う。

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