「魔女」裁判 北ヨーロッパ
魔女裁判は、異端審問の延長である。
ただし、ヨーロッパ北部においては、世俗領主が社会秩序を維持する体制であるため、ヨーロッパ南部より、ローマ教皇庁が主導する異端審問は普及が遅れた。
そのヨーロッパ北部において、魔女裁判が流行った原因としては、裁判管轄権を持つ領主の個人的意思の場合もあり、魔女狩り好きの刑吏の存在の場合もある。
また、占術者、呪術者を「魔女」として糾弾しようとする農民社会の意向も強かった。
実際、「魔女を征伐して欲しい」旨の、夥しい請願書も残っている。
その理由は「天候不順と天災による凶作被害の責任は、魔女の魔術にある」というものが大半を占めている。
要するに、村落共同体による、魔女への集団リンチでもあった。
このような請願を放置すると、村落共同体自身が、魔女たちを襲い、殺した。
さらに暴発して、裁判官や司祭まで、襲撃した。
実際、村落共同体による、魔女への集団リンチも記録されている。
①「魔女」とされた女性が逃亡することを心配した住民たちが、裁判官の手から、彼女を強奪して焼き殺した。
②裁判により「鞭打ち刑」とされた魔女に対して、住民たちは、「軽過ぎる刑」と憤った。
住民たちは、魔女に石を投げて殺した。
それでもおさまらず、「軽過ぎる」刑を科した役人たちを、村から追放した。
特にヨーロッパ北部での農業収穫量は、気象条件に大きな影響を受けた。
そのため、気象予測関連の呪術や迷信が多く存在していた。
三圃性や農業技術革新により、農作物の収穫は増加傾向にあったが、まだ微々たるものでしかなかった。
農民たちは家畜や農作物の被害原因は、魔女にあるとして疑わなかった。
天候不順をもたらす、嵐を呼ぶ、牛の乳を出なくする、ワインの味を不味くする、全ての責任を魔女に押し付けた。
ただし、魔女を異端として教会の法廷で裁くことは、法理論的には当初は、無理があった。
信仰上の異端と、そもそも、魔女は違うのである。
その矛盾を解決したのが、前出の「魔女の槌」である。
この「魔女の槌」理論の普及が、宗教的異端が少なかったドイツで、魔女を「異端」として処罰に導いたのである。
また、「魔女の槌」が、グーテンベルクの出版技術の革新により、ドイツから全イタリア、フランス、スペイン、北方諸国にまで拡散した。
※1486年にケルンで初めて印刷され、長年に渡り版を重ねた。
ドイツでは16版以上、フランスは11版、ただしイタリアでは2版。
学識者の言語でもあるラテン語だけではなくドイツ語にも訳されていたために、大衆へのプロパガンダの書にもなった。
そして「魔女の槌」に書かれた「悪魔の実在」が、宗教改革と反宗教改革の激突の中でも、互いに相手を悪魔と決めつける誹謗中傷の論拠の一つになった。
ローマ教皇イノケンティウス8世の教書(魔女教書)も、「魔女の槌」と並び、魔女行為プロパガンダの役目を果たした。※出版された最初の教書。
その中に、魔女行為に関する記述がある。
「最近、我々に苦い悲しみを与える報告があった。北ドイツの某都市及びマインツ、ケルン、トリアー、ザルツブルク、ブレーメン地方、都市領邦地域、司祭管轄区で、多くの男女が、いまだ母胎にある嬰児を殺し、家畜を殺し、土地の作物を損ない、ブドウの実、木々の実、荷馬、獣その他の動物、ブドウ畑、果樹園、牧場、牧草地、穀草、小麦、その他あらゆる穀物に損害を与えた」
ローマ教皇自身が、魔女の悪行を認めていることも、魔女裁判激化の大きな原因になったことは当然である。
客観的に言えば、宗教界の長による、大量殺人の奨励でもある。
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