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健さん(6)

翌朝8時になった。
ひとみは、どうにも気になって仕方がないので、玄関を出て、隣の健のアパートに近づくと、洗濯機の回る音と、シャワーの音。
ひとみは、安心したような、しかしまだ不安のような、複雑な思い。
「動けたんだ・・・そこまではいいけれど」
「あの酷い打撲だと、服を脱ぐのも、お湯をあてるのも、洗濯機も痛いのに」
それでも、管理人であったとしても、合鍵を持って、シャワー中の健の部屋に入るわけにはいかない。
「また、後で、のぞいてみようかしら」となって、再び自分の家に戻った。

約30分たった。
ひとみが、再び玄関を出ると、圭子の姿。
お重ではないけれど、昨日と同じに風呂敷包と、紙袋を持って歩いて来る。

圭子はひとみの姿を見て、会釈。
「ひとみちゃん、おはよう」

ひとみも、出遅れたけれど、「あ、圭子さん、おはようございます」と返す。
それでも「さっき、洗濯機の音とシャワーの音が」と伝えると、圭子もホッとするような、やはり心配なような。
「健君、泣き顔で洗濯機回して、シャワーかな」

ひとみは圭子に頭を下げた。
「頑固者ですみません」

圭子は、「は?」と言った顔。
「何言っているの?ひとみちゃん、健君の彼女か何かなの?」

ひとみは、一瞬で顔が真っ赤。
「いえ、お部屋に入ったのも6年前の入居の日と、昨日ぐらいで」

圭子は、フンと笑う。
「だったら、紛らわしいこと言わない」
「単に契約書の上での大家さんとか管理人さんだけでしょ?」

ひとみは、これには反論できない。
たしかに、健の顔を見ても、「こんにちは」「こんばんは」程度で、真っ赤になって声も裏返るのだから。
それでも、圭子の強い言葉には不快感。
「圭子さんだって何様のつもり?圭子さんは健さんの何なの?」
と思うけれど、やはり年上の圭子には、反論をためらう。

ひとみと圭子が、そんな攻防戦を行っていた時だった。
アパートのドアがガタンと開き、健が姿を現した。
健は、大きな帽子、顔を半分隠すような大きな黒マスク、そして毛糸の手袋をつけている。

圭子は、何のためらいもない。
健の前に立つ。
「健君!大丈夫?歩けるの?」

ひとみは、一歩出遅れたけれど、圭子の横で健に声をかける。
「健さん、お出かけを?」
「まだ、無理をしないで、お食事は出来ました?」

健は、目以外の表情がわからないものの、くぐもった声。
「ああ、圭子さんに、ひとみお嬢様」
「おはようございます」
「何か、御用ですか?」
ただ、声を出すのも苦しいのか、言い終えて肩で息をしている。

圭子は声が震えた。
「いえ、私たちの用事ではなくて、健さんが心配で」
ひとみも続く。
「圭子さんの言う通りです、ひどい怪我でした、心配なんです」

しかし健は、心配の声には答えない。
「いえ、心配されるほどではなく」とかすれた声で歩き出す。

その歩き方は、最初はいびつ、どこかをかばっている感じだったけれど、数歩歩いた時点で、遅いけれど真っ直ぐの歩みに変わる。
ただ、無理やり普通に歩いているのがすぐにわかる。
痛みが強いのか、たちまち顔も耳も真っ赤、首筋には汗が流れる。

ひとみ
「無理です、家に戻ってください」
圭子
「いったい、どこに?」

ほぼ同時に声をかけられるけれど、健は答えない。
そのまま、大きな通りに向かって歩いて行く。

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