維摩VS弥勒菩薩
結局、誰一人として、維摩の見舞いに行かないので、釈迦はついに、菩薩たちを見舞いに行かせようとした。
その第一番として選ばれたのは、弥勒菩薩。
弥勒菩薩は、現在は兜率天にいるけれど、6億4千万年後に人間界に降りてきて、釈迦の次に仏となるべき立派な菩薩であった。
しかし、この弥勒菩薩も、維摩への見舞いを断ると言う。
弥勒菩薩
「師匠、私には見舞いなど出来ません」
「その理由としては、かつて高い雲の上の世界の、昔兜卒天王にて不退転地の行について説いていました」
「つまり、不退転地、悟りの段階において、絶対に退かない位について説法をしていたのです」
「すると維摩さんが歩いてきて言うのです」
「弥勒さんは、次の一生で仏になるという保証の受記を釈迦さんから受けたんだってね」
「私が頷いていると、今度は質問です」
「弥勒さん、その受記って、過去?それとも現在?それとも未来?」
「私は、これはうかつには答えられないと構えていると、維摩さんが言うんです」
「いつ、受記を受けたかとの話で、過去とすれば、その過去は既に過ぎ去っているので受記はない」
「未来に受けると言えば、未来はまだ来ていないので、受記などありえない」
「仮に現在受けていると言うなら、現在だって、時間が止まるということはなく、常に動いているわけで、それもありえない」
「つまり、時などは、つかまえることは無理」
「時間を直線的に、過去、現在、未来と固定して考えるのも無理なのでは?」
維摩の指摘は厳しい。
常に無常に動いていく時の流れの中、過去は過ぎ去り、未来は来てもいない。
現在と言っても、刻々と時は過ぎて行く。
そんな無常の時の流れの中で、釈迦から「自分の次の仏はお前だ」との、保証をもらったところで、その実体そのものがありえない。
「その実体がない受記に頼り、他者を教えるとは何事か」と弥勒菩薩を厳しく指摘するのである。
結局、弥勒菩薩も、一種の「おごり」を、維摩によって完全に論破されてしまった。
「御仏の教えを説くのに、時間とか資格などはいらない」そんな教えのように考えるべきなのだと思う。
尚、弥勒菩薩の「6億4千万年後」の解釈は、そのままとらえると実に荒唐無稽で、長くて100年の時間しか持たない人間にとって、絶望を通り越してどうでもいい時間になる。
しかし、こうも考えられないだろうか。
同じ1時間でも、楽な時と、苦しい時では、長さの実感が異なる。
つまり、果てしなく長く辛い時間であっても、救いは必ずあるということ。
だから、希望は失うべきではなく、自暴自棄で自滅する必要もないというのが、弥勒菩薩の教えなのではないかと思うのである。