『それ』は私の意義なのか
今朝の電車の事故がどうしても気になっている。
それはその駅を私も今朝利用したっていうのもあるけれど、
事故に遭ったのが同年代の女性であることと、原因がまだ不明なことがどうしても人ごととは思えないからだ。
事故であったなら、朝、その時間まで私はきっとこれから先のことを、例えば仕事のことや週末のことを考えていたに違いない。もしくは、誰かのことを想っていたのかもしれない。親や友人、恋人のこと。
その人生が一瞬で。
今までの積み重ねが一瞬で。
これからの人生が一瞬で。
朝の「行ってきます」が。
私はこのまま、私の中で大事なことや人がこのまま、強制終了されたら。
でもなぜか、去年の自分も話しかけてくる。
私は、社会に戻れるのだろうか。もちろん今、働いてはいるけれど心の開き方、社交的な接し方が欠落して残ったのは殻の中で安全を確認する、それはソラマメのごとく警戒している私しかいない。
ひとりでも怖くはない、そう思っているのに、他人の感情や思考が流れ込んできて自我が私を辱める。優しくされればされるほど私は呼吸ができなくなっていく。
もしこのまま強制終了されたら、楽なのではないか。もしかしたら全部が輝かしい思い出になって今までの苦悩は浄化され、無意識に全てが幸せだったと思えるのではないかと思ってしまう。
なんのために今、ここに存在し、生き方をよりよくしようとしているのだろう。
そう考えずにはいられない、負のオージャス全開の私が、明らかにここに存在する。負のチャクラに覆われた、強固な私がいる。
どんな人生も、いろいろな人が経験する唯一無二のもの。なのにそこに光を見出せなくなる時、私は何を見上げればいいのだろう。
よくある映画のワンシーン。神様を信仰していても、いざという時なぜ神は沈黙を貫くのだろうかと、そんな、それは信仰の否定であり、自分の今までの存在意義を見失うようなあまりに残酷な現実。
私の今は一体なぜあるだろうか。
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