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ヒト

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2018年3月の記事一覧

憧れの姉

私は二人姉妹の妹。 姉とは3歳離れている。 私にとっての姉は、いつも笑っていていつも弱っている、わがままで、優しくて、素直で、頼れるけど頼れない、天真爛漫なイメージだ。 小さい頃から、姉のマネばかりしていた。遊びも習い事も、全部全部。 いつも笑顔の姉に対し私は引っ込み思案で姉の背後に陰のようにできるだけ張り付いていた。言葉も発さず、姉に通訳させ、姉は大人達と話す。 「憧れの姉。」 「憧れの姉。」 私が大学で東京に出てきても、姉は両親と地元で一人暮らしをしながら仕

自分というひと5

いつもはワクワクさせる春の陽射しが今は私をイライラさせる。 優しく包み込むような日だまりと空気が、今は進む道に霧がかかったモヤに変わっている。 なのに、皮肉にも桜は満開で、マンションの前を流れる東京湾につながる川の水面は太陽に反射してキラキラして余計にわたしの眼を眩ませるのだ。 気持ちの良いはずの春がこんな風に感じているのは、復職の時期が延長になったからだ。 体調が良く、春の復帰に意欲漫々だったわたしは先生の「あと3ヶ月。焦らずにいきましょう。順調ですから、今がむしろ

自分というひと4

私の活力。 家族?友達?趣味?お金?やり甲斐?美味しい御飯やお酒? 「活力」とは働き動く為の力という意味。 休養もそろそろ解けそうで、働き始める予定。この歳で(30代前半で)、9月からだから・・・約半年お休みしてるとは社会人になりたてだった頃の私には予想も付かないだろう。大学からバイト漬けで掛け持ちまでしてたし、卒業後もがむしゃらに仕事して、とことんのめり込んで行く生活をしていたから。知ること、できることが増えていくのが単純に嬉しくて楽しかった。だから気づかなかった。こ

Kという子

Kは私の大事な友人のひとり。Kなんて書くとなんだかカフカの「城」の登場人物みたいだ。本名はY。出会った当時彼女はケチャップをこよなく愛していた。だから「ケチャ子」と呼んでいた。今はもう本名で名前を呼ぶけれど、当時の想い出も大事にしたくてあえて「ケチャ子」のKと呼ぶことにしよう。 彼女との出会いは原宿のカフェ。バイト先だ。わたしは大学生で彼女は美容系の専門学生だった。その個性は田舎者の私には思い浮かばない様なセンスで、彼女が着ると彼女の「もの」となる服装でわたしは大好きだった

Yというひと

Yはとても特別な存在。 元バイトの店長で、元カレ。よくあるシチュエーションだけど、大事な大事な私の友人。もう初めて会ってから13年。住んでいる場所も、職業も、環境も、ちなもに歳も違うけれど忘れる前に連絡を取る。どうでもいい事を。 私にとって、唯一の理解者で親族的存在。 恋愛感情にならないのかというと過去は何回も何回も振られている! 付き合った期間も忘れるほど短い イケメンでも性格がいいわけでもない(ごめんね)。 わたしに酷似しているから一緒には居られないのだろう。

自分というひと3

ヨガでは呼吸を大事にしている 良い空気を吸って身体の中の悪いものを吐き出す 量的には、吸う息=吐く息 わたしは毎日毎日映画を3〜5本観る。本も読む。仕事しかしていなかった時、映画は週末できれば1本。読書は通勤時。それすらできない時期があって好きな物に全くふれられなくて、息抜きできなくて、きゅうきゅうになっていった。 だから先生に、好きな事、気持が良いと感じることをして穏やかに過ごしなさいと言われた時は「これで映画三昧、読書三昧だ〜!」なんて思っていた。そしてらまたなぜ

自分というひと2

初回に「私、鬱です」と記載した。 日常は元気だ。元気。 ご飯を食べて、読書や映画も楽しんで、スポーツもして、友人とお酒も交わしたりする。いたって普通。(普通とはなんなのかわからないけど) 死にたくなんてないし。 不器用なだけで、なんら変わらない。 あなたも、そうなのかも。ただ私は発覚したってだけで。 腕を切ると落ち着く時期があった。カッターを使ってスーって何本も、同じ所を何回も。痛くないときもあるけど(なぜ?)、基本やっぱり痛いし、死にたくない。 じゃ、なんで切

パティシエというひとたち

パティシエという人は男性が多い。 将来なにになりたいと聞かれて「ケーキ屋さん!」と答えるのは女の子が圧倒的に多いし、現在の現場で実際働く若い子も女の子が多い。 私もパティスリーではないが過去に厨房にいたことがあるが、大きい鍋やボウル、素材の重さも仕込み量が半端でないしヤケドするほど熱かったりかじかむほど冷たかったり、腱鞘炎になる程同じことを続ける。 お菓子は計量やタイミングでグンと出来上がりに影響が出てくるから本当に神経質になるはずなのに、ショーケースに並ぶキラキラした

自分というひと

鬱病になった。それは2017年の9月頃。 正常と異常は紙一重で、自分の精神状態はいつもその紙(ロープ)の上を綱渡りのように歩いている。 そう認識していたにもかかわらず、気付いたら自分の知らない自分になっていて、どれが本当の私かわからなくなった。 いや、本当の私なんかない。全部、私。 産まれた時からずっと私。 今は鬱から元(本当)の私に戻るのではなくアップデートした私になるのだ。そんな発想が生まれるようになって、よかった。 すべては望み通り。すべての望みは叶っている