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note再開しました&瞑想してます

ラジオでも喋ったんですが
自分の感じていること、考えてることを
気楽にアウトプットできる場欲しいなぁと思い
昔書いてたnoteを引っ張り出してきました。

放置してる間にフォロワーさんが増えてたり
スキしてもらってたりしてて
ありがとう~~~ってなりました。
(でも昔の記事読まれるのちょっと恥ずかしい)

Instagramもアカウントあるんだけど
どうしても”人に見られてる”という意識が出てしまうので、構えて文章を書いてしまうところがあって。
noteの、昔のブログっぽい感じめちゃよき。

昔はみんな自分のためにブログ書いてたよね。
くだらない事もたくさん書いてたよね~って思い出しました。

で、最近の私の話ですが
ほぼ毎日、朝と夜に瞑想してて、今この記事書く前にもしてたんだけど
そしたらすごく、なんていうか、特筆すべきような感覚が襲ってきたので、書き留めようと思っております。


悲しみというアイデンティティ

最近、杉下ヒトミちゃんにオススメしてもらった
エックハルト・トールの本を読んでいて

一言で言うと
・過去も未来も幻想であり、”今”のみがある。
・”今”にいると、本来の自分になれる
・”今”にいると、あらゆる苦しみから解放される

ということが書かれているのですが
その中に
「苦しみや悲しみがアイデンティティになっている人は、苦しみから解放されることに抵抗を覚えたり、反発したくなったりするだろう」
というようなことが書かれてあり。

あ~確かに、小説家の人とか、表現者とか、悲しみや苦しみが個性になってる人いるよな~
と思っていたのですが、
今まさに、その「”苦しみや悲しみというアイデンティティ”を手放すことへの抵抗」みたいなものを味わっています。
さっき瞑想しててめちゃ泣けてきたの。

私の中の闇

私の長女がね、すごくネガティブな質を持っていて
5歳にして、夜寝る前に
「生まれてきたくなかった」
「自分が大嫌い」
「私はきっと地獄に落ちる」
「なんのために生きているのか分からない」
「ナイフで自分の心臓を刺して、全部終わらせたい」
などと言うんです。

そういう娘に対しても、私の中で色々な取り組みや学びがあるんだけど、それは置いておいて今は私の話をすると、

娘のそういう言葉を聞くと、
私の中で湧き上がってくる感情がある。

私もずっとそう思っていた。
私も生きていたくない。
生きていることが辛い。悲しい。
という気持ち。

子供の頃からそう思っていて
でもどこにも出すことができなかった気持ちが湧き上がってくる。

私も、娘も、
それは持って生まれた”質”で、どうしようも無い。
でもそんな質があっても、楽しく生きることはできるし、人生に喜びはある。
人を愛することも、愛される幸せを感じることもできる。
だから大丈夫だよ。

そんな気持ちを、自分に対しても、娘に対しても抱いていて、
なるべく楽しく優しく生きられるように、その方法を見つけていこうね、って
自分に対しても、娘に対しても思ってた。

”今”にいる

でも昨日、会いたかった友達と会って、ランチしながら4時間くらいずーっと夢中でいろんなお喋りして、それがすごく”今にいる”感覚で、楽しかったの。
で、それを維持したくて、家でも歌を歌いながら子供たちと接してて
(余談だけど歌を歌うのは”今”にいるすごく良い方法だと思う。歌詞とテンポが単純で、歌ってて気持ちいい曲がいいと思う。私のお気に入りは童謡の”こいのぼり”です)

そしたら、長女がささいなことで物凄い癇癪を起こした。
まぁいつものことなんだけど「もう全部嫌だ」みたいなことを怒り泣きながら言って、
その姿を見ていたら、自分の中の「生きるの辛い」っていう感覚が蘇ってきて、押し寄せてきて、すごい辛くなって泣いて。

でも、そのまま感情に飲まれそうになったところを
踏みとどまって”今にいる”をしてみたら、
びっくりするくらい簡単に、悲しみの波が去っていった。
え?と思ったんだけど、そこも深く掘り下げずに、ただただ”今にいる”をし続けた。

その時、”今にいると、あらゆる苦しみから解放される”の意味を体感的に少し掴んだ気がした。
苦しみから開放される、と聞くと、嘘くさいなって思うのは、苦しみから解放されるという言葉のイメージが、いつもハッピーでアゲ⤴︎⤴みたいな感じだからで
でもそういう事ではないんだな、と思った。

私で言ったら、”生きることが辛い”っていうネガティブな感覚を持ったまま、苦しみから解放される状態になる。
なんか、すごく体感的だから、言葉にできないし、今こうして書いている瞬間にも、言葉という型にはまらない感覚たちが、どんどん遠ざかって薄れていく感じがあるんだけど。

でも「どんなに問題があっても、今のままで幸せになれる」みたいなことが本に書かれてるんだけど
こういうことなのか!と思った。

悲しみを手離したくない感覚


で、昨日はよかったの!それで!
それがね、今朝になったら、もうめちゃくちゃに瞑想したくねぇ~~~~~~!!!!!
という気持ちになっていて。
心がめちゃくちゃザワザワしてて、瞑想がすごく億劫に感じられて。
だから、いつもは朝イチでやってるんだけど、今日は朝からスマホいじって、ツイッターで見たいような見たくないような美容アカウント見たりして、ほんとにダラダラしてた。
で、お昼の12時くらいに「でもやっぱりやろ…」ってなって、瞑想したの。

そしたら、もう悲しくて悲しくて、涙が出てきて、わぁ~~~~~って泣きました。
それは”生きるのが辛い”という、私の中のひとつのアイデンティティに別れを告げる悲しさ、としか言い表せないような悲しみだった。
”生きているのが辛い私”の温かさ、みたいなものをめちゃくちゃ手放したくなかった…

それを手放したら人間らしさがなくなるんじゃないか、とか
冷たい人になっちゃうんじゃないか、とか
人生つまんなくなるんじゃないか、とか
いろんか思いがよぎったけど
でもその全部が「そんなことない」んだと分かっていた。
(実際、私は何も変わってないし)

その人の性質や持ち物がどうであるかと
「生きている喜びを感じる」ということは
ほぼ関係がないんだとわかった。

あとね、”生きるのが辛い私を手放した”というと
”生きるのが辛いと思っている人ではなくなった”
”生きるのが辛くなくなった”
みたいに受け取れるかもしれないんだけど、全然そうじゃなくて
ただ、それがアイデンティティではなくなった、という感じだった。
自分を固定せず、自由にする感じ。

伝わるでしょうか…

はぁ…

もう…

なんかさ、今まで
お母さんが厳しかったからだとか
あの時笑われたのがトラウマだからだとか
子供がいるからとか
外見のコンプレックスがあるからとか
お金稼げないからとか
いろんな理由をつけて自分は幸せになれないって思ってて
(いや、幸せなんだけどね)
でもそれは全部、自分が幸せになれない理由を作ってたんだって分かっていって、

最終的に自分の性質のせいにしてたのに
それすらも今回クリアされちゃって
今すぐに幸せになれる、ってことのしっぽを掴んじゃって、
もう誰のせいにもできなくて、
ほんと辛いんだけど。
(結局まだ辛いんかい)

まだまだ、何かのせいにして、でも私悪くないもん!だって××のせいだもん!って言って
”ちょっと不幸”のプールでちゃぷちゃぷしてたい気持ち、全然あるのに。
まだ全然、人生サボろうとしてるのに…😂

あとね、今まで
「生きるの辛いけど頑張って幸せになってこーね!」みたいに自分や娘に対して思ってたのが、
「生きるの辛い(完)」になった感じがある。
すごくシンプルになって、そこに問題を生じさせにくくなった、と言えば伝わるでしょうか。

そしてこんな長く文章書いてたせいで、子供たちのお迎えの時間になってしまいました。

とっても長いのにここまで読んでくださった方、ありがとうございました♡

とりあえず瞑想続けてみて
どんな感じかまたここに書きたいな。

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