四角い人

 「この会社、給料安くてやってらんないわー。同世代の人とかもっともらってるのになぁ」という同僚の愚痴にうんうんと頷きつつも、胸の内では「この仕事ぶりでこの給料なら貰いすぎじゃないかなぁ?」と思っていたりする。

 わたしの根っこは四角四面。真面目できっちりなのだ。とりあえず相手の言うことに同意して見せるのは、わたしなりの処世術だ。

 真面目っ子は、まわりをひどく疲れさせる。

 まだ学校に通っていた頃は、真面目ということが大事にされていた気がする。おとなが決めた規律に従ってさえいれば評価してもらえる。楽だった。

 でも、社会というところに出るくらいの歳になったら、真面目なことなんて価値の無いことのように思った。

 学校のテストは100点満点。でも社会では100点以上を求められる。わたしは今、もの作りの会社の営業だけど、営業なら当然利益を生まなきゃいけない。それは、自分にかかってる人件費とトントンではもちろんいけないのであって、ものを作るための設備にかかるお金とか、新しいものを作るための開発費とか、まあいい企業なら社会貢献のために使うお金であるとか、そこらへんもきっちり稼がなきゃいけない。

 そんなこと言っても、具体的に自分がどれだけ利益を出しているのか計算したことはないんだけど(計算はとても苦手)わたしもまわりと自分を比べてしまうことはあって、同僚がガンガン注文を取ってきているのを見てしまうとわたしはダメだと思ってしまう。同僚と自分とは、扱ってる商品が違うし、売り込んでるお客さんの色も違うわけだから比べようがないんだけどね。

 今いる会社は個人の成績に対してはきっちり算出してなくて、全員が出す利益で目標を決めているから、会社側も誰々の売上はいくらだと厳密に出している訳じゃない。めんどくさいのかそういう主義なのかは知らんけど。でもそれが明らかになったとしたら、わたしは落第点じゃないかと怯えている。

 だからわたしは決して「給料が安い」なんて言えない。そういうとこ、真面目なのかなあと思ったりする。

 でも、そういう真面目さは、まわりの人をひどく疲れさせることに気づいたのだ。真面目なことが評価されるのは若いうちだけだ。

 同じ会社にいる人が、学校のときと同じように「遅刻はするな」「廊下は走るな」「掃除はきちんと」「服装は華美に走るな」とガミガミ言い続けたら、仕事をする気さえなくなってしまうだろう。

 社会に出たら、評価されるのは真面目さじゃなく実績だ。

 つまり、利益さえ生んでいれば、多少不真面目でもいいのだ。でも、子供の頃からずーっと「真面目」の看板を下ろさずにいるわたしは、今さら不真面目になれないし、他人に対しても一定の真面目さを求めてしまうと言うかなんと言うか…

 こんなこと書いてる時点で堅苦しくって仕方ないわよね。

 同僚がもし会社を辞めてしまうとしたらその理由は「給料安くてやってらんね」なんだろうけど、わたしの場合は「自分は利益を出せてなくて申し訳ないから」と言って辞めるんだろな。上司も疲れるだろな、そんな理由。

 しんどいしんどい。自分でもこれは生き方上手じゃないなと思うんだけど、根っこがこうだからなかなか変えられない。だったら、自分はともかく、せめてまわりを疲れされないようにしようと、笑える類のジョーク・ハッタリを

 真面目に勉強してます(ダメじゃん)

 でも、これは冗談ではなくて、人の発言をある程度聞き流す技術とか、まわりに合わせた発言を、自分の信念曲げないギリギリのラインでする技術とか、もうどうにもまわりの話していることに同意ができない場合は、全てひっくり返すくらいのアホな発言をする技術くらいは身に付けとかないといけないなと思って実践中である。

 上手くなったと思うよ。たぶん。

 

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