いつも「死」がモノサシになっている
今日は2019年1月26日。
8年前の今日、私の弟は死んだ。
私にとってあまりに自然にやってきてしまったその日を、彼の友人たちは未だに覚えていてくれて、毎年お彼岸と命日に訪れてお線香をあげてくれるし、お墓参りにいけばどこかの誰かが花をたむけてくれている。
友人たちを見るに、当たり前ながら立派に成人してそれぞれの仕事を頑張っているらしい。家族をもった子もいるみたいだ。
世界の時間は確実に進んでいて、私の弟の時間だけが止まってしまった。
あの頃の弟は、まだ18歳だった。
癌(がん).
弟が“がん”と診断されたのは、私が中学一年生の秋頃だったと思う。
3歳下なので、弟は小学4年生だったはず。
物心ついた頃から野球をやっていて、リトルリーグ(少年野球チーム)でも低学年ながら誰もが認めるエースで(少し記憶が美化されているかもしれないけれど)、私にとっても誇れる弟だった。
そんな弟が、「肩が痛くて眠れない」と毎晩泣くようになった。
ちょうどピッチャーとしての頭角を現し始めた時期と重なったこともあり、最初に行った病院では練習のしすぎと診断された。
それでもいつまでも良くならない肩、頻繁に起きる高熱などの体調不良、心配した両親は別の病院へ連れていき、そこで「ユーイング肉腫」という珍しいがんの疑いを受けて帰ってきた。骨肉腫に似たもので、よりリンパに近い部分で発がんするらしい。
若くて進行が早かったこともあり、悪性腫瘍なら5年後の生存率は10%程度と言われた。
*****
彼が腫瘍の検査のために千葉県がんセンターに連れて行かれた日のことは、今でもよく覚えている。
私が学校から帰ると、家族がみんないなくて、なぜか隣町に住む祖母が来ていた。
「今、みんな病院に行ってるからね、ご飯用意するから待っとき」
その優しい声になんだか胸がざわついた。
その気持ちを言語化するのは今でも難しい。
私はとにかくその不安をぬぐいたくてピアノを弾いた。
どうしてそれを選んだのかはわからないけれど、ベートーヴェンの悲愴ソナタを無心でしばらく弾いていたと思う。
(ちなみにこの頃はまだ音大は目指していない。)
その日食べた夕飯は、味が何もしなかった。
*****
私がその後、どうやって弟のがんを知ったのかは忘れてしまった。
帰ってきた両親の目は真っ赤だったし(泣いたのであろう)、弟は帰ってこなかった。
なんだか夫婦喧嘩みたいなことをしていた気もする。入院手続きを受ける時に、お父さんが泣いていなくなってしまったとかで、「大事な時に頼りにならない!」って、お母さんが怒っていた。
とにかくこの日、私の弟は悪性腫瘍のユーイング肉腫という醜い名前のがんによって、余命を宣告された。
闘(たたかい).
約10年の闘病生活だった。
5年後生存率が10%と言われたわりには、結構長い期間闘い続けていたのだな、と思う。
もちろんそこまで生きる道のりは健康な人のそれとはあまりにも違いすぎるし、残酷すぎる現実は何度も立ちはだかった。
腕を切断し、足を切断し、肺は放射線治療で硬くなり、呼吸困難で意識障害になり、最後は人工呼吸器で延命措置をした。
(最初の手術で膝下の骨を一本抜いて腕に移植したものの、その後、足が壊死して切断に至った。肺にも転移が見つかり一部切除と放射線治療が必要になった。)
でも、その10年の間に、希望を持てる期間がなかったわけではない。
中学時代の2〜3年の間は、病状が落ち着いていて、片足を引きずりながらも陸上部で選手として頑張ったり、ときには自転車で隣の県まで走りに行っていることもあった。
私の目には、今までに見たどんな出来事より「キラキラ」という言葉が似合う青春を過ごしてるように見えた。
私(わたし).
当時の私はというと、自分の弟がそんなことになっているにも関わらず、田舎でちょっとヤンチャしてるグループとつるんだり、男を取った取られたで振り回されたり、あまり優等生でない遊び方をしていたと思う。(それでも成績は優等生だったのだと言い訳させてほしい。)
そんな学校生活の裏で、毎週土日は片道2時間弱かけて千葉県がんセンターに通わなければならなかった。(そういえば、病院から帰る車内ではいつも涙を堪えながら「あしたのジョー」のCDを聞いていたっけ。)
家族が余命宣告されているのって、頭がおかしくなりそうな不安に襲われるし、なんだか少しずつ自分の心とカラダがコントロールできなくなる。もちろん本人が一番辛いに決まってるのは言うまでもないけれど。
今思えば、そんな心のバランスをとるために、いつもピアノという存在があったのかもしれない。
だから、あるとき突然「音大に行きたい」という無理難題(金銭的にも技術的にも)を突きつけた私に、両親は困惑しながらも合意してくれた。
私が色々なことを抑制されて我慢していることを知ってくれてたのだと思うし、弟が好きなことをできない身体になってしまったことを気に病んでいたのだと思う。
だからせめて私には、という想いで最大限の援助をしてくれた。
「人間いつか死んでしまうなら今興味あること全部やっておきたい」
そう思った。
死(し).
毎週のように病院へ通っていると、他の入院患者さんたちとも仲良くなってくる。
特に、骨肉腫系のがんは若い人に発症しやすいので、6才の男の子や20歳前後のお兄さんがとても多かった。
どの患者さんもみんな本当に心優しく、面白くて大好きだった。
(実際に私はそこで出会った21歳のお兄さんに本気で恋して告白もした。)
だけど、がんって残酷で、そこで出会った人たちはみんな次々と亡くなっていく。
弟が退院して元気だった間に、訃報は容赦なく届いた。
6才の小さな男の子、恋をしていたお兄さん、弟の世話をよく見てくれたお兄さん。がんはみんなの命を奪っていった。あっという間のことだった。
だから自然と、「死は近くにある」と無意識で感じていたし、いつかその時がくるってわかってもいた。
弟(おとうと).
弟が死んだのは、2011年の今日だ。
東日本大震災の少し前で、私は大学で試験中だった。
音大の試験は実技はもちろん、筆記試験もあるので、その前夜は遅くまで勉強して寝落ちしていた。
朝起きると、弟から「もう無理かも」と一言だけ深夜にメールがきていたけれど、この時はあまり深く考えず、また死ぬ死ぬ詐欺か?くらいに思って適当な返信をしてしまった。
午前は西洋美術史か何かだったろうか。
試験が終わると父から留守電が入っていた。折り返すように、とのこと。
その声色でもう全て悟ったけれど、一応電話をかけ直した。
*****
午後は作曲法の筆記試験があった。バッハの平均律のような、3声を使った16小節くらいのフーガを五線譜のテスト用紙に作っていく。
弟の死を知った私は、なんだか全身の神経が開かれて敏感になっていて、音符が頭の中を舞うような感覚をもった。
かつてない勢いでフーガは完成した。
後にも先にも、こんな無敵モードみたいな状態になったことはない。
クスリとかをやる人はいつもこんな感じなんだろうか?などとふざけたことを考えていた。
その試験を終えてすぐ、私は地元へ向かわなければならなかったのだけれど、呑気なことに一度一人暮らしのマンションに帰宅してピアノを弾いた。
もう今更急いでも弟は戻ってこない。
そう思ってレクイエムとして何曲も演奏した。
どうしてかわからないけれど、私の苦手だったショパンがやけに心地よく響いていた記憶がある。(この年の試験曲は近現代だったからバルトークを練習しなければいけなかったはずなのに!)
弟の死に立ち会えなかったことは、その後何度か後悔しそうになったけれど、よくよく考えれば立ち会っていることのほうが辛かった気がする。
苦しみながら目の前で亡くなる命だなんて見ていられない。私は弱い。
ひととおり弾いて心が落ち着いてから、私は気合いを入れて地元へ向かった。
その日の夕陽はやけに鮮明で、雲のひとつひとつが朱色に輝いていた。
涙(なみだ).
最後に弟に会ったのはその年の正月だった。
一緒に箱根駅伝を見て、ゲームをして、みかんを食べて、コントを見て、お腹を抱えるほど笑ったりして。
弟の最後の1年は、喉から人工呼吸器をいれられた状態での自宅療養。
24時間、15分置きに痰をとらなければならない。歯医者で口の中をシュポシュポ吸うみたいなノズルで、呼吸器から痰を吸い出す。
(これは医療行為にあたるのだけど、介助者は講習を受けることで自宅で対応することができる。)
痰がつまればいつ息が止まるかわからない。15分置きにやってくる恐怖と戦わなければいけない中、母はこの頃ずっと寝てないような状況だったはずだ。
ちなみに、声帯を切っているので話すこともできず、コミュニケーションは文字盤やメールを使ってのやりとり。緊急時に叫ぶことさえできない怖さは、本人にしかわからないだろう。
(慣れてくるとアイコンタクトで何が言いたいかわかってきたりするのは人間の不思議だ。)
それに、痩せ細った身体で寝たきりだと骨が布団に擦れて床ずれを起こしてしまうらしい。
この年の帰省では、弟にストレッチを頼まれて、ベッドから抱き起こしたことが一度だけあった。
あの時触れた貧弱な身体、それでも私には少し重くて、すぐに下ろしてしまったあの感覚、温度、景色、この先きっと忘れることはないと思う。
*****
地元へ着くと、親戚がみんなうちに集まっていた。誰もが泣いていて、目が赤い。
それを見てすごく心苦しくなったけど、どうしてか私は涙が出なかった。
弟の姿は綺麗だった。元々イケメンだったと思うのだけれど、痩せてシュッとしていて、少し口角があがっていて、呼吸器もとれている、久しぶりに全身に邪魔なものがない状態の彼を見た。
今にも起き上がりそうな気がしたけど、もう身体は冷たい。それでも、清らかだった。
なんだか感情が何も湧かない。
*****
結局、私は葬式をはじめ全ての儀式が終わっても、まだ泣くことができなかった。
両親からは、今悲しんでおかないと後で苦しくなるよと説得され、親戚からは
「なんでヘラヘラしてるのか」
「サイコパスなんじゃないか」
とコソコソ話された。
それもそうだ。実の姉なのに涙ひとつ流さないなんて、どう考えてもサイコパスである。
*****
それからのことは本当によく覚えてない。
東京に戻ってきてからも、毎日「死んだように生きてる」ような状態で、何の感情も感じないままに過ごしていた。
何を食べても味がしない、笑っていても楽しくない、ピアノの音がうまく聞こえない。
どうやってその年の実技試験を乗り越えたのかわからない。
心をごまかすように毎日暴飲暴食をしていたのに、春に健康診断をしたら、50キロあった体重が42キロまで落ちていて驚いた。
(その頃の自分は、友人との写真を見返しても、病的に痩せていることがわかる。)
しかし困ったことに、感情が湧かないことは、音楽家として失格に近い。
そんな私を見かねて、周囲は映画や本を色々勧めてくれた。
あれはなんの映画だったろうか。部屋のパソコンに向かって、そんなに悲しくないはずのストーリーを見ていたとき、私は号泣した。
このとき、弟が死んでから初めて泣いた。
一度泣いたら止まらなくなって、映画を見て泣いてたはずなのに、どうしてか弟のことが一気に思い出されて、溢れるままにずっとずっと泣いた。
それから私は映画やドラマを見ることをフックにして、毎日泣いた。
その度に弟のことを思い出して、少しずつ心が浄化されていく。
弟のことを想い涙を流すのではなくて、涙を流すことで弟の死を受け入れられていたのかもしれない。
それから、食べ物には味があったことを思い出した。
塵(ちり).
少し話は逸れるけど、私は星空を見上げるのが大好きだ。
だけど東京の空はあまりに明るくて、見えるはずの星が見えないときにはプラネタリウムにも足を運ぶ。
プラネタリウムは良い。
私の聞きたいセリフをたくさんくれる。
宇宙には“チリ”がたくさん浮いていて、私たちのいる地球もチリみたいなものらしい。
私たち人間も、あの広大な宇宙のたーーっくさんのチリの中の一つにしか過ぎない。
そう考えたら、死んでこの世からいなくなるって感覚が怖くなくなった。
みんな同じ宇宙のチリなだけだもん。宇宙クラスから見たら、生きてるか死んでるかはあまり重要じゃなさそう。
東京で初めてプラネタリウムに行った夜、私はすごく幸せな気持ちになった。
*****
今思えば、弟が死んでからの数年間は少し心が壊れていたのかもしれない。
なにより驚いたのは、あんなに何度も覚悟し実感していたはずの「死」が、自分の心を想定以上に潰してしまったことだ。
あの時は混乱のさなかで呼吸の仕方さえ忘れてしまいそうだった。
それでも、自分なりの浄化方法(動画を見て泣くこと)を見つけてからは、そのおかげでエンジニアに転身することになったり、色んな作品を知って、後の演奏にも生かすことができたりしたので良かったと思う。
(三浦春馬主演のドラマ「ブラッディーマンデイ」きっかけでエンジニアになったのだけれも、この話はまたいつか。)
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そういえば、後に東日本大震災があって、私の地元も被災した。津波で亡くなった方も近くにいたし、うちも例外なく家は一部崩れ、室内はぐちゃぐちゃになり、しばらく電気水道などは使えなかったそうだ。(私は東京にいたので後から聞いた話だけれど。)
それを考えると、弟はそれ以前に亡くなっていて良かったのかもしれないと思ってしまう。
万が一津波が来ようものなら逃げられるわけがないし、人工呼吸器をつけている以上、停電していたのでは息が止まるのは時間の問題だ。
余震の中、自分を生かす装置が止まるのを黙って待っていることのほうがよっぽどしんどかっただろう。
そして、きっと同じような状況で被災されて亡くなっていった方もいるのではないか、と考えては心の中がかき乱される。
私は私にできることを精一杯したい。
生(いきる).
こんな背景があったからなのかな。
私は何をするときも「死」を基準に人生の選択をするようになった。
・これしても死ぬわけじゃないから大丈夫
・死ぬ前にこれはやっておこう
・自分が死んでからの世界をこうしよう
・死ぬリスクを負うことはしない(バンジージャンプとか?)
そして、私の両親はよくこういった。
「困っている人を見たら神様だと思え」
余命宣告された家族は、藁にもすがる思いで色々な可能性を探る。
医療の進歩はもちろん、漢方薬やサプリメント、それに加えて神様仏様、といった具合に。
何かあったとき、「あの時あの人を助けなかったからバチが当たったのかも」、そんな風に後悔を絶対に残したくない。
そういった気持ちに一心不乱で、自分たちに出来ることはなんでもやってきた。
困ってるの定義はなんだっていい。
道に迷ってる人がいれば声をかけるし、失くし物は一緒に探す。わからないことがあって悩んでる人には相談に乗るし、スキルで助けられることであれば勉強してでも自分の仕事にする。
今こうして弟が私にとって大きな存在になり、モノサシとなって人生に影響を与えているように、自分が生きていても死んでいても、誰かの人生に深く関わっていく人間でありたいと思う。
(それにはちょっと自分には「他者への愛」が足りないな、なんて思ってはいるけれど。)
だからこそ、もっと自分自身が強くなって、大事な人を大事にできる自分でいたい。
嘘(うそ).
さて、これを読んだみんなは、これを読んだことを、読んだ内容をフィクションだと思ってほしい。
なんなら忘れてほしい。
ここまで読ませておいてなんやねん、と思われるかもしれないけれど、私は誰かに気を遣われたり、同情されたり、「この人は大変なことがあったのね〜」とか思われたりしたいわけではないし、そんな風に扱いを遠慮されるのは困る。
この日記は、私がただ20代のうちに整理しておきたかった気持ちを吐き出して、自分がもうちゃんと受け入れられてるよねという確認と昇華をしたかっただけだから。
だけど、それでももし、誰かが何か考えてくれるのであれば、生きるとか死ぬとかじゃなくて、ただ目の前にいる大切な人の笑顔、声、匂い、温度を感じてみてほしい。景色を覚えておいてほしい。
一人一人が目の前の人を大事にしたら、きっとこの世界はもっともっと温かくなるから。
まぁ、みんな宇宙の塵のひとかけらにすぎないんだけど。
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