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短編小説「コール」

 アントニオ猪木が亡くなった、というニュースが流れてきた。ずいぶん痩せてしまった猪木の映像を目にした時の衝撃を覚えている。時間の流れを感じると同時に、思い出したのは三田さんのことだった。私があの会社にいたのは、もう二十年以上前で、三田さんもとっくに定年してあそこにはいない。

 なにもかもが遠くなる――寂しい気持ちに心が塞がれる。

 あの頃の会社、そして我々の毎日は、楽しかった。多分、みんなもおなじだったのではないだろうか。それは多分、三田さんのおかげだ。


「三田課長――!」

 三田さんが、バランスを崩して窓から落ちた。全身の血の気が引いた。言わんこっちゃない。窓の外にある蜂の巣の駆除なんて、業者に頼めば良かったのだ。

 こんなに切羽詰まった状況なのに、落ちていく姿がスローモーションで見える。不思議だ、とのんきなことを考えた。遠ざかる三田さんの背中に、届きもしないのに私は手を伸ばす。バン! と、とんでもなく大きな音がして、思わず目を閉じた。

おおー!

歓声が響き、私が恐る恐る目を開けると、三田さんは駐輪場のトタン屋根の上で、万歳した格好で突っ立っていた。奇跡としかいいようがない状況に、両手で口を覆う。

「イタ―――――――――――‼」

 絶叫が空気を切り裂いた。あぁー、と同情の声が辺りから漏れる。さもありなん。三田さんはいつの間にか四つん這いの姿勢でぎゃあぎゃあ喚いていた。

「骨折れたんちゃうか」「救急車いるか」

 いつの間にか、三田さんの周りに人だかりが出来ていた。早い。後れをとった私は、急いで階段を駆け下りた。

「三田課長、大丈夫ですか?」

 現場に到着した私が荒い息で尋ねると、三田さんは低く呻いた。ちょうど男性社員三人の助けを借りて、駐輪場の屋根から下ろされている最中だった。

「大丈夫じゃないやろー、三階から駐輪場の屋根に落ちたんやから、そこそこ高さあるで」

 三田さんに肩を貸しながら、営業の足立さんが呆れたように言った。私だって、本当に大丈夫だと思ってそう訊いてるわけではない。ムッとしたが、それは黙っておいた。

「なんとか頭は怪我せんようにって、体勢整えたら……ビビビビッ、てな。足下から電気があがってきて。そしたらもう立たれへんねん」

 三田さんは情けない顔でそう説明する。電気て。それ、やっぱり骨折れとんちゃうんかい、と心の中でツッコむ。

 とりあえず車で病院に連れてくわ、と足立さんが言ってくれたので、任せることにする。三田さんだから、多分大丈夫だろう、と思いながら、自分の持ち場に戻った。

「ほんで、病院にはいったんやな」

 私の報告を聞いた部長が、やれやれ、といった感じでため息をついた。蜂の巣退治を頼んだのは部長なのだが、都合の悪いことは忘れる人なのだ。私は曖昧に笑って首をかしげた。

「今日予定してた会議、三田君がおらんのやったら今度にするわ。みんなに言うといて」

 面倒な会議がないことにちょっとホッとし、席に戻る。隣の席の美和ちゃんが「三田さん、落ちたってほんまですか」と小声で訊いてきた。

「うん。見事に落ちた。最後なんか体操選手みたいやった」

 軽く話を盛ると、「さすが三田さん……」と美和ちゃんが唸った。そう。三田さんは「さすが」という枕詞のつくタイプだ。

 就職氷河期のさなか、なんとか潜り込んだ会社の総務部に私は配属された。総務は人事と庶務に分かれていて、三田さんは庶務の課長だった。庶務では会社の行事などを取り仕切ったり、役員の秘書的な役割も担っていたが、基本業務は雑用だ。先ほどの蜂の巣の駆除なんて、雑用以外の何物でもない。

 庶務は、四十六歳の三田さん、それより一つ上の小池さん、三十七歳の長内さん、二十五歳の私、二十三歳の美和ちゃんで構成されている。「さすが」にふさわしく、三田さんは何事にも大胆だが、小池さんと長内さんはよく気が利いてそつがないタイプなので、バランスの取れたチームだった。関西人らしく軽口の叩ける環境で、三田さんのような上司を持てば、誰でも伸び伸びと、また、「自分がしっかりしなくては」と思いながら仕事をするのではないだろうか。

「三田さんの良さを面接で見抜けたのって、よく考えたら凄いよな」

長内さんの言葉は、本当にその通りだと思う。三田さんは、一見して普通じゃない雰囲気を醸し出している。そんな人が総務部にいるなんて、他の会社なら考えられない。

 私が新入社員だったとき、たまたま朝早くに出社しなければいけない用事があった。

駅から会社に向かって歩いて行くと、前方に三田さんの特徴のある後ろ姿を発見した。わざわざ駆け寄って挨拶するのも煩わしいので、距離を保ったまま歩いた。三田さんは、大きな紙袋を左手に提げ、時折右手をその中に突っ込んでいた。何をしているんだろう? 観察していると、どうも紙袋の中から何かをとりだして食べているようだった。まさか社会人が、しかも通勤途中に何かを食べ歩きしているとは思わず、「えぇ?」と声が出た。その声に三田さんが振り向いた。その手には、かじりかけのドーナツが握られていた。

「三田さん、甘いもんが好きやからな」

 あとで長内さんにその話をすると、楽しそうに教えてくれた。

「知ってる? 三田さん毎朝駅前のドーナツショップに行くねん。いっつもおんなじ席座ってるらしいで。どんだけ常連かっていうと、休みの日も欠かさず行くくらい」

「嘘でしょ? 三田課長って、隣の県から来てるんですよね?」

「ほんまほんま。それがルーティンなんやて。三田さんは結婚してへんし、あの性格やし、自由にやってんねやろ」

「さすがー」

「この話、知ってる? 三田さんな、昔営業やってたんやけど、組事務所に商品売りつけに行ったことがあるらしい」

「命知らずですねぇ!」

 貯金が一億あるだの、客から不要となった仏壇を押しつけられただの、三田さんの伝説とも言える話は、面識ある社員なら必ずと言っていいほど持っていた。みんながみんな、実に自慢げに話してくれる。それはそれは嬉しそうに。

 一度、お見合いをセッティングされたとき、他人の眼鏡を借りていったという話も聞いた。なんでも「その眼鏡格好いいでんな! 僕に貸してぇや」と先輩に頼みこんで貸して貰ったらしい。この話にはオチがあって、眼鏡の度が合わず、お見合い会場であるホテルのガラスに激突したそうだ。当然、見合い相手には振られたとか、なんとか。

 三田さんに関する話は、恐らく九九パーセントは本当なのだろうが、もしかしたら少しは嘘が混じっているかもしれない。でも、それを本当だと思わせる力が三田さんにはあった。どれが嘘で、どれが本当かはどうでもよくて、私たちは「ファンタジーとして」三田さんの存在を愛していた。


 近所の整形外科で見て貰ったところ、三田さんの足は奇跡的に無事だった。捻挫のような症状はあるが、骨折には至らなかったようだ。骨が強かったのか、運が良かったのか――いや、落下するような状況で運がいいはずもないのだが。

「ただ、痛いのは痛いから、歩くのに難儀しますわ」

 左足が固定された痛々しい状態で会社に来るのは、相当大変だったはずだ。少なくとも、もう少し良くなるまでは休めばいいのに。みんなにそう言われると、恥ずかしそうに頭をかき、「家おっても、暇なだけで」と笑った。

 さすが休みの日もドーナツショップ通いをしているだけある。

 まさか、と思って「今朝、ドーナツ食べたり……してないですよね?」と訊くと、「何で知ってますの?」と不思議そうな顔をした。さすがだ。

「でも、ええこともあったんでっせ」

 三田さんは相好を崩した。いつも思うのだが、今時ここまでこてこてな関西弁を話す人は珍しい。大体が三田さんは大阪の人ではないのだ。営業をしていたときの名残なのかもしれない。そんなことをぼんやり考えていたものだから、反応が一瞬遅れてしまった。

「いいことってなんです?」

 代わりに美和ちゃんが尋ねた。美和ちゃんは入社二年目。可愛らしい見た目とは裏腹に、物怖じしないところがチャームポイントだ。

「実はね……。趣味で書いてた小説が、賞をとったんですわ」

 えーーーーーーー‼

 美和ちゃんと私が大声で叫んだので、何事かとフロアにいた人たちが振り返った。始業前とは言え、ここは会社である。すみません、とぺこぺこ頭を下げながら、声のトーンを落として「もっと、詳しく」と三田さんに催促する。

「や、賞っていっても、文芸誌とかがやってるような奴でなくて、地方文学賞やねんけどね」

「地方文学賞……ほー」

 美和ちゃんも私も、そういうことには疎いので、いまいちよく分かっていない。有名な賞ではない、と言うことだけ理解し、「でも、優勝ですよね?」と念を押す。

「優勝、まぁ、優勝という言い方は違うと思うけど」

 三田さんは、微妙な表情で首をかしげた。細かいことはどうでもいいでしょ、と美和ちゃんがツッコむ。私は妙に興奮してしまった。また三田さんに「さすがエピソード」が増えたのだ。これはみんなに言い伝えるべき出来事だ。

「授賞式とかってあるんですか?」

「一ヶ月後にあるらしいんで、そのときはお休みしますわ」

「賞金とか、出たり?」

「しますねぇ」

「おいくら万円ですか?」

 三田さんは声を出さずに、口だけ動かした。

(ひゃく)

 私と美和ちゃんは顔を見合わせ、やっぱり声を出さずに(わーー!)とリアクションした。百万円。我々事務職の年収の、約三分の一。なんと羨ましいことだ。美和ちゃんがすかさず、

「今度おごってください」とねだった。

 三田さんは機嫌良く頷き、「でも、恥ずかしいからあんまりみんなに言わんとってくださいや」と念を押すことを忘れなかった。

 その日の仕事はちょっと上の空になってしまった。けして私のものではない百万円だが、身近な百万円の存在感ったらない。三田さんは独身で課長だし、貯金が一億あるとか噂されているので(本当かは知らない)、百万円なんて大した金額ではないかもしれない。が、自分の作品が認められた結果なら、話は違ってくるだろう。きっと嬉しいに決まっている。三階から落ちたり、足を痛めた事実なんてぶっ飛んだことだろう。

 しかし、その連絡をした人は、三田さんの電話口のキャラクターに笑いやしなかっただろうか。そんなことを想像すると、これまたニヤニヤしてしまう。絶対いつものあの調子で電話に出たのだろうから。先日も、外国のお客様からかかってきた電話を三田さんに押しつけたら、風変わりな英語で対応していて、みんな笑いを堪えるのに必死だった。

「……ズィロ、セブン、ワン! プリーズ、コール・ザ・ナンバー! ユー、オーケー!」

 三田さんは、メーカーのお客様相談室の番号を案内したのだが、関西のイントネーションで繰り出される英語、しかも片言の英語がどこまで相手に通じたのかは分からない。しかし、心意気だけは伝わったと思う。私たちと三田さん、英語力はどっこいどっこいだったが、あの勇気があればどんな人とでもコミュニケート出来る……、いや、電話だけだとちょっと心許ないか。

 そんな風に、心はあっちに行ったりこっちに行ったり忙しかった。

 そして、次の日にはもう会社中のみんながそのニュースを知っていた。


「さすがですね!」

 私たちの会話では、三田さんの枕詞として「さすが」があるのはごく自然なことだったが、こうも周りの人たちに「さすが」と言われ続けるのは、三田さんにとってしんどいことであるらしかった。

「もう……、あんまりみんなに言わんでくれって、言いましたやん」

 うんざりした顔で三田さんが言うのを、美和ちゃんは涼しげな顔で聞き流した。

「私、自分の同期にしか言うてませんよ」

 その同期の彼、彼女らは、間違いなく自分の部署の先輩たちに吹聴したのだ。しかもそれが三田さんについてだったのだから、広まらないわけがない。

「社長にまで言われましたんやで。こんなんやったら黙っといたらよかった」

 頭を振り、重いため息をつきながら三田さんが文句を言う。とりなすように、小池さんが「いずれ知れ渡ってたよ」と言う。

「だって、授賞式のために休むんでしょ? そのとき結局バレますやんね」

「そやかて、こないたくさん言われませんやろ」

 三田さんはもう一度ため息をついて、「なんなら来客にまで宣伝しはるんでっせ。かなんわ」と肩を落とした。ちょっとしたお祭り騒ぎだな、と、さすがに三田さんに同情する。

「まぁ、ある程度知れ渡ったら落ち着きますって」

 私が慰めると、三田さんが懐疑的な表情で首をかしげた。

 私の言ったとおり、数日経つとみんなの熱は落ち着いた。なぜか社長だけが「三田先生」とふざけて名前を呼ぶので、その度に三田さんは困った顔をする。どういう反応をするのが正解なのか、誰も答えを見つけ出せないと思う。


 総務部では、月に一度、朝礼当番というものがあった。その月の担当の人が、何らかの話をすることになっていて、こういうことが得意な人と不得意な人の差がはっきりと表れる。私は本当にこういうことが苦手で、話を考えるのも苦痛なら、人前に立つのも足が震えるような有様だった。

 当然三田さんは得意な部類で、今月はプロレスの話だった。なんでも、アントニオ猪木の大ファンらしい。身振り手振りを交え、猪木の「伝説」を称える三田さんは、さながら講談師のようだった。話は終盤戦に突入し、湾岸危機のとき、イラクの人質解放に猪木が一役買った武勇伝について、三田さんは熱弁を振るった。

「……売名行為やと言う人もいてますが、結局、誰が何をしてどういう結果を残したか、ちゅうことが一番大事なことやないでしょうか。人の心の中は誰にも見えません。偽善であろうと、確実にその行為によって救われる人がいるとき、心の正しさなんてどうでもいいのではないでしょうか。僕にとって猪木は、すべきことをしたというその一点だけで、十分にスーパースターであったと思います……」

 一九九〇年、私は中学生だった。ニュースなどには興味がなく、そんなことがあったこともよく知らなかった。私にとっての猪木は、それを望むファンにビンタをくれてやる、ちょっとヤバい人でしかなかった。だから三田さんの話には興味をそそられたし、少しばかり猪木を見直す気持ちになった。

「自分の好きだと思う人が、尊敬に足る人物であったとき、人はこの上ない喜びを得ると思います。それがたとえ幻想に近いものであってもです。期待に応えるということの素晴らしさ、それを、僕は猪木から学びました。僕も仕事や人生で、誰かの期待に応えられるよう努めたい、そう思っております」

 朝礼当番のスピーチの締めくくりは、仕事に絡めて終わるのが常である。猪木の四方山話から始まった割には、押さえるところを押さえたスピーチ、「さすが」三田さんであった。

「聞き入ったわ、今日も」

 朝礼が終わり、皆ががやがやと自分の席に戻る中、部長が三田さんを褒めた。いいようにこき使ってはいるが、部長も三田さんのことが好きなのだ。

「まぁでも、期待に応えるなんてダルいですよね」

 美和ちゃんが私にだけ聞こえるよう、ボソッと呟く。私は肩をすくめてその言葉を受け流した。


 二、三週間もすると、三田さんの足はすっかり良くなった。授賞式に出席するのに、苦労しないですむというわけだ。

「母親も、ホッとしてましたわ。足が固定されてたときは、いろいろ面倒かけたからね」

 三田さんのお母さんだったら、七十代くらいだろうか。いい年した息子が、会社の三階から落ちて足を捻挫したなんて、さぞ面食らったことだろう。

いや、あの三田さんを育て上げたお母さんなら、そんなことくらいでは驚かないかもしれないな、と思い直す。どんな子ども時代を過ごし、どんな青春時代を過ごしたのか。人の昔を想像するのは面白いものだ。

職場の人たちの顔をそっと盗み見て、ああ、この人たちにも若い時代があったのだよな、と改めて思う。私や美和ちゃんも、いつかそんな風に思われる時代が来るのだろう。

明日やるべきことをみんなにお願いする三田さんは、どことなく浮かれていた。

「すみませんね、授賞式が平日にあるもんやから」

 たかが一日休むくらい、なんてことないのに、迷惑をかけると言ってみんなにぺこぺこ頭を下げている。繁忙期というわけでもなく、そんなに気にせんでも、と長内さんが言い、小池さんが無言で頷いた。

「あ、そうだ、販促の田辺部長が、金封の宛名書きを頼むって言ってましたよ」

 先ほど預かった金封を渡す。結婚祝いで金額が三万円だと伝えると、硯と筆を出し、あっという間に三田さんは書き終えた。

「ほんと、こういうときだけ見事ですよね」

 普段はミミズがのたくったような字を書いてるから、全然読めないですもんね。と美和ちゃんが言う。みんな大いに頷いた。メモが読めず、謎解きをしたことが何度あったことだろう。

「明日の分の賞状も、自分で書いたらどうですか」

 会社の表彰式で渡される賞状の文字も三田さんが書いているため、私がそう茶化した。

三田さんはもともと習字十段だったそうだが、入社してから賞状書士の資格を取ったという。

「外注するより、僕が書けた方が便利やし、お金もかかりませんやろ」

 仕事に役立つからと、わざわざ自分の時間やお金を使う気持ちが私には分からない。朝礼の時の、期待に応えるというやつを実践しているのかもしれない。

 三田さんはいつも誰かのために頑張っている人だから、庶務の仕事は向いていると思う。明日の表彰式がよいものになるようにと、心の中でそっと祈った。


 授賞式の翌日、さぞ意気揚々と出社してくるだろうと皆ワクワクして待っていたのだが、当のご本人は何故か元気がなかった。背中はいつになく丸まっているし、やたらとため息をついている。歩く速度も、いつもキビキビと早歩きなのに、ゆっくり一歩ずつ確かめるかのような足取りだった。

「なんかあったんかな」

 本当なら授賞式のあれこれを聞き出したかったのだが、三田さんはみんなに一つずつお土産だけ渡すと、「今日から心機一転、頑張りますので」と、なにやら決意した面持ちで言うので、聞きそびれてしまった。空気の読めない部長が「授賞式はどんなだった?」と水を向けても、「いやもう、休んですんませんでした」と、頑として話そうとしない。モヤモヤした気持ちを抱えながら、三田さんのただ事でない様子に、それ以上聞くことは出来なかった。

 雑務に追われるうち、三田さんの受賞の話を口にする人は少なくなっていった。ただ一人、美和ちゃんを除いて。

「三田課長、絶対なんかありましたよね」

 美和ちゃんが、お弁当の唐揚げを箸でつまみあげながら言った。彼女が毎朝作っているというお弁当の中身は、ほぼ冷凍食品である。しかし、自分ではご飯すら炊いたことのない私が、人のお弁当についてどうこう言う資格はない。

 私たちは普段、総務部が来客対応時に使っている、パーティションで区切られた小部屋で昼食をとっている。総務には四人女性がいるのだが、他の二人はいつも食堂に行っているので、大体は美和ちゃんと食べることが多かった。

「やっぱそうやんなぁ。あきらかにあの日から、様子おかしいよなぁ」

「まさか、あの話はガセやったんですかね?」

「いや、三田課長が嘘つくことはないやろ」

「受賞が取り消されたとか、実は間違いやったとか」

「えぇ? ないとは思うけど」

 じゃあなんなんスかー、と、美和ちゃんが天を仰いだ。私はコンビニで買ったクリームデニッシュをちぎり、口に運ぶ。三田さんが元気でないと、総務部がうまくまわらない、そんな気がする。

「あー、百万、どうなるんかな」

「あんたの金じゃないやろ」

 美和ちゃんは、三田さんの心配をしているのか、お金の心配をしているのかよく分からない。だっておごってくれるって言ってたし、と口を尖らせているところをみると、単純にお金の心配をしているようである。

「部長が尋ねても答えへんくらいやから、よっぽどじゃないと話してくれへんやろ」

 そんな言葉でこの話を切り上げ、昨日見たドラマの感想を述べると、美和ちゃんは主演女優の演技をこきおろした。彼女は本当に口が悪いのだ。


「そろそろ忘年会の場所を決めなあかんな」

 長内さんが言い出して、うへーと美和ちゃんが顔をしかめた。総務部の忘年会の幹事は、長内さんと、一番下っ端の美和ちゃんの係だ。美和ちゃんのたっての希望で、「鍋料理を出す店以外」ということは決まっているが、おじさんたちはやたらと和食の店に行きたがる。脂っこい料理が苦手だという建前だが、単純に若い子の行くような店には気後れするせいだろう。

「普通の居酒屋だと、文句言われるんですよね。みんな割り勘やねんから、安い方がいいのに」

 正直、全然年収が違うし飲む量だって違うのに、金額が一律なのは本当に納得がいかない。気前のいい三田課長は多く出すことに異存はないだろうが、部長がとにかくケチなのだ。そのくせ、それなりの店に行きたがる。若くて収入のない私たちにとって、会社の飲み会なんて面倒でうっとうしいものでしかなかった。

「忘年会の時、ついでといったらなんやけど、三田さんの祝いをしたろうと思うねん」

 長内さんが、そう宣言した。勿論、三田さんのいないときを見計らってである。あれからひと月ほど経ち、そろそろ三田さんの受賞について忘れかけていた頃合いだった。長内さんはずっと気にかけていたらしく、機会をうかがっていたのだそうだ。

「多分、そのためだけに集まるっていうたら断られると思うんよ。なんか様子もおかしかったし。けど、三田さんには世話になってるやんか? こういうときくらい、ちゃんとお祝いしたいんよなぁ」

「そうですよね。百万がどうなったかも知りたいし」

 美和ちゃんの執念に、私は隣で苦笑いした。

小池さんが、「なんかプレゼントあげるん?」と訊いた。小池さんはよく三田さんの世話を焼いてあげている。何をプレゼントすればいいか、彼女が一番よく分かっていそうなので、どんなものなら喜びはりますかね、と質問返しをした。小池さんは、うーんと唸り、頬に手を当てた。 

「欲のあるタイプやないからね。高価なもんとかは欲しがらへんのちゃう?」

「じゃあ、どんなのにします?」

「……甘い物好きやからお菓子とか? こないだ、朝礼でアントニオ猪木の話もしてたよなぁ。プロレス関連のグッズとかはどう?」

 それを聞いた長内さんが、ポンと手を打って、それやわ、と目を輝かせた。

「猪木のグッズでも探すか。でも、DVDとか持ってるかもしらんし、それとなく探りいれとこ。近々試合があるんやったら観戦チケットもええなぁ。どこの団体が好きかなー、やっぱ新日本かな」

「何ですかそれ」

「猪木が作ったプロレス団体。ジャイアント馬場が作ったのが全日本らしいで。三田さんの受け売りやから、ようは知らんけど」

「へー」

 美和ちゃんが興味なさそうに相づちを打つ。特に対案や異論もなく、私たちがお菓子を、長内さんがプロレスグッズを探してみると言うことで話は終わった。

「プロレスなんておもろいんですかね。私スポーツ観戦とか、せーへんし」

「私も興味なかったからなぁ」

 父親がふざけてアイアンクローしてくるのがウザすぎて、どちらかというとプロレスなんて嫌いだった。昔はよくテレビで放送していたイメージだが、今はどうなんだろう? プロレスラーの名前なんて全然知らない。朝礼では熱く猪木を語っていた三田さんだったが、猪木が去ったあとのプロレスは今でも胸の躍る代物なのだろうか。

 美和ちゃんが、三田さんの好きなお菓子について話し出した。ドーナツも好きだけど、和菓子、ことに餡子に目がないらしい。有名な店の和菓子をリサーチするべく、一緒に百貨店巡りすることを約束して、その話は終わった。

 

「なかなかええ店やな」

 部長が機嫌よさげに店内を見渡した。美和ちゃんが見つけてきた創作居酒屋は、和モダンな内装で、若者だけでなく年配受けも良さそうな店だった。出汁の良い香りが鼻をくすぐる。

「ここ、テーブル席なんで靴脱がなくていいんですよ~」

 美和ちゃんがニコニコと説明する。冬場はブーツを履いていたりすることが多いので、座敷じゃない方がありがたい。総務部は人事と庶務(と部長)を合わせて十一人、六人掛けのテーブルが二つある個室に通された。

「部長は上座にどうぞ」

長内さんが部長を奥の方の席に誘導する。一見部長を立てているかのようだが、幹事である自分たちが部長と離れるように、実にうまく席の配置がなされているのだ。私はなぜかいつも三田さんと部長のいるテーブルに着かされ、勝手に「酒飲みチーム」と命名されていた。

 人事の「酒豪」、小田さんと竹内さんのおじさんコンビ、ザルで有名な「姉御」の吉崎さんも同じテーブルだ。部長と一緒なのは気詰まりだが、最終的にはみんな酔ってそんなことどうでもよくなってくるため、この席決めにそこまでの不満は出なかった。

 全員が席に着き、長内さんがてきぱきと飲み物の手配をする。美和ちゃんは幹事だが、やってる風を装うのがうまく、実は何の仕事もしていない。

 我々のテーブルにはビール瓶が所狭しと並び、それを確認してから、長内さんが部長に乾杯の挨拶を促した。部長は鷹揚に頷いて立ち上がり、ぐるりとみんなの顔を見回した。

「今年も一年、お疲れ様でした――」

 この言葉から始まり、商品の売れ行きや情勢などに触れ、なかなか厳しい云々の感想を述べた後、それでも皆が健康に大過なく過ごせて良かったわ、的に部長は話をまとめた。神妙な面持ちで話に聞き入っているが、内容のほとんどは耳から素通りだ。

「三田君も、また新しい賞を目指して、頑張ってや」

 部長は最後にそう付け加えて、それでは、乾杯、とグラスを掲げた。それに倣って、カンパーイ、と続ける。座の空気がほどけて、一気に雑談が始まった。

 珍しく美和ちゃんが自分の席を離れ、私の隣に座っていた三田さんの元にやってきた。 

「三田課長、結局百万はどうなったんですか?」

 美和ちゃんがぶっこんできた。なんでカネの話、と竹内さんが目を丸くし、三田さんは目を瞬いている。うーん、と困ったように頭を掻いてから、賞金、受け取るの辞退しよかなぁと思てますねん、と三田さんは呟いた。

 えぇー! なんで?

 皆がどよめき、ますます三田さんは困ったような表情になる。美和ちゃんは血相を変え、私におごってくれる約束でしたよね、と三田さんに詰め寄っている。なんかあったの? と小池さんが尋ねると、三田さんはビールを一気に呷ってから、大きなゲップをした。

「けちょんけちょんにけなされましたんや」

 しん、と場が静まる。手酌でビールをつごうとした三田さんから、美和ちゃんが瓶を奪い取り、なみなみとグラスに注いだ。泡だらけのビールをまた一気に飲み干し、三田さんは陽気に話を続ける。

「可愛がっとった猫が一年前に死んでんけど、母親の悲しみがそらぁ深くて、いつまでも思い出して泣いとったんですわ。写真見ては泣いて、思い出の品を見て泣いて。なんか、その姿を見てたら、書き残したくなって。それで、うちの猫と母親をモデルに小説を書いたんですわ。それが受賞したんですわ」

また三田さんの手がビールに伸びたので、美和ちゃんが黙って注ぎたした。今度は一口だけ飲み、ふぅ、と息を吐く。

「母親は、エラい喜んでくれましたな。うちの猫のこと、みんなに知ってもらえるんやなぁ言うてね……せやのに、表彰式で、酷評ですわ。審査員のうち、一人の小説家がね。まぁ、僕の小説が至らなかったのはしゃあない。自分に能力ないんやから。しゃあないって、一回は納得したんや。けどなぁ、その小説の掲載誌に、講評が載るんやけどな。あろうことか僕のこと〝税金泥棒〟って書きはってん、その先生。賞金は税金から出てるからね。こんな小説ふさわしないっちゅうねんよ。けったいなこと言うやろ。僕が勝手に賞貰うたわけちゃうねんで。何人かで決めはってんで。そないに納得いかんねやったら、賞なんか授けんだらよろしいやん。それを、泥棒て何なん?……なんかなぁ、情けのうて悲しゅうて。その先生、好きやったから、余計ショックやってん。猫も浮かばれへんで、こんなケチつけられて。キャット驚く、っちゅうねん」

 時々言葉につまりながらも、最後にはくだらないだじゃれを言い、三田さんはニカッ、と歯を見せておどけた。

美和ちゃんがかすれた声で、しょうもな、と呟き、そのじじぃムカつく、と続けた。

「いや、じじぃちゃうねん、女性やねん」

 三田さんが否定すると、長内さんが「そんな小説家の本、絶対買わへん」と怒気をはらんだ声を上げた。

「言うて、長内くん、小説とか買ってまで読むん?」と部長が言い、ハハッ、と乾いた笑い声が響いた。

「まぁ、誰がなんと言おうと、正当に選ばれてんやから。しょげなさんな」

 小池さんが、隠しておいた紙袋を差し出し、「みんなからお祝いやで」と三田さんに押しつけた。

「改めて、おめでとうございます」

「言いたいやつには言わしとけ! 三田さん、おめでとう!」

「ちゃんとおごってくださいよ!」

 力強い声でそれぞれが祝福を述べると、さっきまで笑顔だった三田さんが、戸惑ったような、泣き笑いのような表情を浮かべた。

「いやぁ……、こんなことしてもらう価値、あったんかなぁ」

 声が揺れている。瞬いた瞳が、一瞬光るのが見えた。こんなしょげた三田さんを見るのは初めてだった。三田さんはいつも飄々として、風変わりで、すごい能力を秘めていて、みんなを笑わせる人なのだ。こんなの、違うだろう。

 先ほどよりもずっと強い腹立ちが、私の中にこみ上げてきた。

「元気ですかっ!」

 アルコールの力に任せて、私は叫んだ。立ち上がり、両拳を握りしめ、腹から声を出した。顔から火が出る、とはこういうことを言うのだろう。でも、そんな気持ちになんか負けていられない。

三田さんはぽかんと口を開けて、私の顔を見ている。部のみんなも、戸惑いの表情を隠せないでいる。私はギュッと目をつぶり、自分の心を奮い立たせた。顎だ。顎を出すのだ。私は今、猪木になるのだ、と言い聞かせる。

「元気があればッ、なんでも出来る!」

 拳を突き上げる。多分、今私の顔は夕日より赤い。しん、とした空気に、膝が震えそうになったとき、

「そうやで! 元気があれば、何でも出来る!」

 大声をあげたのは、長内さんだった。きちんとしゃくれて、拳を突き上げている。私はほとんど泣きそうになる。

「三田さん! 元気ですかっ!」

 美和ちゃんも声を上げた。こちらは少し照れがあるのか、胸の前で両拳を握りしめている。可愛さを諦めきれなかったのか。あざといが、でも許す。

「元気ですか!」

 皆が、察したように声を揃えて叫んだ。三田さんは、泣き笑いの表情で、うんうん、と頷くと、ゆっくりと俯いた。その肩が、小さく震えている。見守る私も、鼻の奥がツンとした。

「いくぞ!」 

 部長が、一本指を掲げる。みんなで、いーち、にー、さーん、と声を上げた。


「あの猪木の真似、あれが〝期待に応える〟ってやつなんですかね」

 忘年会の帰り道に、美和ちゃんがしみじみと言った一言を、時々思い出す。

 期待に応えようと思ったわけではないし、猪木のものまねが三田さんの救いになったかどうかは怪しい。ただ少なくとも、元気がないと何にも出来ないのは確かだ。
 あれから私は猪木のことを少し好きになった。

 三田さんは今どこで何をしているのだろうか。生きているのかさえよく分からないが、死んでいる三田さんなんて想像できないから、きっと生きているのだろう。
 生きているに決まっている。

 三田さん。元気ですか?
「元気があれば、何でも出来る!」

                                     (了)

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