平安のプリンセス、中宮彰子さんとは①~華麗な人生、摂関政治とともに~
皆様こんにちは、彰子(しょうし)です。
今日の東京は曇り空。
昨日は季節を間違えて、うっかり蝉が鳴いてしまうほど温かく、陽射しにもパワーがありましたが、
今日は一転、北寄りの空気を感じます。
一進一退を繰り返しながら季節は進んでいくのだな、と実感しております。
今日は私がお名前をお借りしている、中宮彰子さんについてお話したいと思います。
といっても、彰子さんへの想いがあまりにも強く大きいため、
複数回にわたってその生涯と魅力についてお伝えしたいと思います。
※なお、私は歴史学者ではないため、あくまでも私なりの解釈であることをご留意くださいますと幸いです。※
参考サイト(Wikipedia):https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%BD%B0%E5%AD%90
第一回目の今日は、
中宮彰子さんの人生概略
をお話したいと思います。
(令和の彰子、めっちゃ気合い入っております)
中宮というのは天皇のお妃のことで、
出生時のお名前は藤原彰子(ふじわらのしょうし)さん(以下、彰子と記載)です。
988年に時の権力者、藤原道長さん(以下、道長と記載)の長女としてご出生されました。
自身の権力拡大を模索していた道長は、その時に即位されていた一条天皇の女御(お妃の身分の一つ)として、長女の彰子を入内させました。
そのとき、彰子は若干12歳。
当時、一条天皇にはすでに彰子の従妹でもある定子(ていし)(以下定子と記載)さんが皇后の座におられましたが、
定子は身内の不祥事が原因で出家しており、さらに道長の権力拡大の思惑もあり、
1000年、例外的に彰子は中宮(天皇の后)の身分を与えられました。
これは、史上初めての一皇二后体制とされています。
定子は一条天皇の第一皇子(敦康親王)をすでに出産していました。
第二子の出産時の難産により定子は崩御されたため、一条天皇の実際の后は彰子一人になりました。
定子の崩御により、
敦康親王は彰子のお住まい藤壺に移り、彰子が養育することになりました。
その時、彰子は若干13歳。
彰子の母、倫子さんも積極的に育児に関わったとされています。
彰子も母を敬愛しており、倫子さんが44歳で末娘の嬉子(きし)さんを出産されたときには、
盛大なお祝いを贈ったとされています。
このころに仕えていた女房に、『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られた和泉式部、紫式部の娘で歌人の大弐三位、伊勢大輔などがおり、
彰子の下で華麗な女流文芸界が形成されました。
1008年、ついに彰子に第一子(後の後一条天皇)が誕生します。一条天皇にとっては第二皇子。
一条天皇はあまりの嬉しさに、里帰りから戻ってくる彰子を待ちきれず、彰子と皇子に会いに行ったというエピソードがあります。
翌年には第二子(後の後朱雀天皇)を出産されます。
その後、彰子のご主人である一条天皇が発病し、三条天皇に座を譲る際、
一条天皇および彰子としては、故 定子の産んだ第一皇子である敦康親王を皇太子に擁立することを望んでいましたが、
時の権力者、彰子の父である道長の意向により退けられ、彰子の第一子が皇太子となりました。
このとき、怒りをあらわにしたという彰子。
ご自身の皇子ではなく、同じく皇后である故 定子をたてるという意味でも、
敦康親王を皇太子にすることを望んでいたそうです。
彰子は一条天皇の傍で看病しましたが、彰子24歳のとき、一条天皇は崩御されます。
その際には彰子が最期まで付き添ったそうです。
その後、即位された三条天皇も病に侵され、さらに道長の圧力もあり、天皇の座を皇太子である彰子の息子に譲位しました。
齢、若干8歳の後一条天皇の誕生です。
天皇の祖父である道長は、摂政という役職を得て、天皇に変わり政務と執り仕切ることとなりました。
道長の権力はMax時代の到来です。
その後、道長は出家して見た目上息子たち(彰子の弟たち)に実権を譲ったが、
幼い天皇と指導力に乏しい弟たちを支えたのが、天皇の母である彰子でした
。
そのため、彰子は『国母』と呼ばれました。
1026年、彰子は38歳で出家されます。上東門院、もしくは住まわれていたお屋敷の名称から、東北院とも呼ばれました。
その後、ご自身の第二皇子も後朱雀天皇として即位されます。
後朱雀天皇の后は、彰子の末妹、嬉子。嬉子は皇子(後の後冷泉天皇)を出産後に亡くなったため、彰子は孫の母親代わりだった、との記載もあります。
彰子の晩年は子供、孫らに先立たれたため、肉親の死を詠んだ歌を多く残されました。
そして1074年10月3日、87歳で亡くなりました。
遺骨は、藤原北家累代の墓所のうち、宇治陵に埋葬されました。
いかがでしたでしょうか。
時の最高権力者の長女で、父道長の権力掌握の思惑に奔走されながらも、
ご自身のお立場をわきまえ、礼儀正しく、思慮深く、肉親や女房達に愛情を注がれた彰子さん。
彰子さんのおかげで、平安の女流文学界が活性化され、現代の文学界の礎の一つと築いた、といっても、
私は過言ではないと思います。
次回は、彰子さんの人生のなかで、私が特に魅了された点について、
お話していきたいと思います。
それでは皆様、引き続き良い一日をお過ごしください。
彰子(しょうし)
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