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年齢開示の裏側

先日51歳になった。
なんて大人だ。
年齢を言ったり書いたりするとその重さをずっしりと感じ、そしてそれに伴わない自分を感じる。
でもみんなそういうものなのかな。

TwitterとFacebookで51歳になりました。と投稿してみた。
はじめてだった。
数年前にFBは誕生日開示をやめて通知は人にはいかないようにしていた。
わざわざそれを見ておめでとうメッセージを社交辞令的に頂くのはどうもと思っていたのだ。

なのに敢えての投稿。
それもFBのグループ以外での投稿はほとんど初めてだった。

お誕生日だと自ら言ったので、繋がっている方がおめでとうメッセージをたくさん下さった。それはとても嬉しかった。素直にスゴク嬉しかった。

その一方で違う思いがある。
私が一番したかったのは、自分を晒すということなのだと思う。
51歳という自分とはだいぶ不釣り合いの年齢。

私は何せ子供っぽい。
実際見た目も童顔なようだし、ぱっと見は若く見えるようだ。
でもそれはぱっと見であって、ちゃんと見れば年齢なりなことはよくわかっている。
それよりは話し方や声や話していること、たぶん人として何か子供っぽさがある。
だから人が私の年齢を聞いて驚くということはずーっと経験してきた。

だってそれは歳を経た今だけの話ではなく、10代、20代の頃からの話なのだ。何度となく年下かと思ったと言われた。
大人びたことが評価だと感じた年代に、それは大げさに言えば少し屈辱的なことだった。
だから、そう思われる驚かれるというトラウマなのか思い込みが私の中にしっかりある。

今となれば、もちろんぱっと見だろうが何だろうが若く見えるということは嬉しいことで、アンチエイジングなフレーズには喜んで喜んで飛びつく。

でもそれはそれとしてもモヤモヤする何かがある。

若くありたいと思う自分と、人として成熟したいという自分
それは別問題として私の中にあるのだ。

私の若く見えるのは、どうしたって成熟度の足りなさからくるものがにじみ出ているからと自分で思っている。
それをとても恥ずかしいと思っている。

その恥ずかしさを持って開示してみた。

これはひとつ前進といってもいいのか。

ありのままの自分を認めたいと言いつつ、色んな所で顔を出す。
「こんな私じゃ」という思い。

こんな私、どんな私も含めて顔を上げて胸を開いていられる自分になりたい。

それを経てこそ、こんなあなた、どんなあなたも私が受け入れられるようになる日がきて、一緒に喜べるのではないか、そんな風に思っているのだ。
その日に少しでも近づきたい。

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