見出し画像

今年の漢字「喜」

気づけば1月も半月が過ぎようとしている。早いな。
今年はどんな年にしたいか。
今年の私の漢字というものを初めて考えてみた。

友人たちが去年は何だったとか、今年は何にするとか言うのを聞いて羨ましくなったのだ。
以前から年賀状などに書いてくる友人もいて、自分の1年の漢字かぁ、私はなんだろう?って思いながらも、結局考え出したことはなかった。

私に出てくるものかなぁとあまり自分に期待はしていなかったが、
昨年12月に、1年の振り返りや2021年に向けての夢や目標を書き出すワークなどを仲間たちと一緒にやっていくうちにふいッと出てきた。

「喜」
自分が喜ぶ。自分が喜んで他人も喜ぶ。
この状態。

他人は喜んでいるようだけど、実は自分は喜んではいない。
そういうことってあるけれど、そういう時、私は他人が喜んでくれることを優先してそれが良いことだと思いこみ、信じてきた。
でもいつの間にか疲弊しているか、モヤモヤを溜めている。

「人様のため」私の母はこの言葉をよく使う。
母は本当に他人によく尽くす人だし、尊敬できる。
だからこそ、その言葉を刷り込まれてきた私。
もちろんそれはとっても大切なことだし、そうして出来た私の心は母からもらった宝物だと思っている。

だから出来ないと私の大事な心を汚しているような気持ちになる。

でもよーく考えてみると、その大事な心でもって私の心を痛めているって変だ。

そしてその大事な心を都合よくされているように感じる時に私はモヤモヤするのだ。

大事な心を都合よく使われるなんて、そんなこと許していいの?
そんなの嫌だ。

このことは昨年からの私の大きなテーマで、「自分ファースト」を一生懸命掲げてきた。一生懸命掲げないと知らないうちに自分の心が自動的に自分を置き去りにする癖を持ってしまっている。

でも自分を苦しめているのが、自分ファーストにしようとした時に、
「人様のため」と教えてくれた大事な親からもらった心を手放さないといけない気持ちになるということなのだ、ということに気が付いた。

私にとっての宝物。手放すのが苦しいほどの宝物。

その存在がわかった。わかったからどうなのかはまだわからない。
でもそのピースが見えたことで、何か違う気がする。

そんな大切な宝物なら無理に手放さなくてもいい。
使い方を間違えなければいいだけなんじゃない?

この心を授けてくれた母だって私が苦しむことを望んじゃいない。

まずは自分が喜ぼう。
私が喜ぶことを何より母は喜ぶはずだ。

自分の心、気持ちに正直に、しっかり受け止めようと思う。
私の心は喜んでますか?
これをずっとちゃんと自分に問いかける。

自分が満たされ、だからこそ周囲も満たされる年にしていきたい。

まずはこれが今年の漢字だ。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?