日本麻雀百年史 健康マージャンの誕生とその潮流(三)健康マージャンの活動軌跡②

 一九九五年に始まった健康マージャンによる「日中友好交流」の活動は、翌年の訪中団結成による北京大会へと結びつくのであるが、その後予想外の展開へと発展していく。

中國を変えた健康マージャン

 一九九七年一○月、第三次訪中・「西安」大会終了後、田邊恵三会長と北京から中国選手を引き連れてきた王振剛団長が懇談。
 伍紹祖・中国国家体育運動委員会主任(日本で言えば大臣)宛てに、「麻雀を国家体育正式競技としていただくための要望書」の提出について協議した。
 そしてその要望書は翌一一月、伍紹祖・中国国家体育運動委員会主任に提出された。
 翌一九九八年一月、中国国家体育委員会が「麻将」(麻雀の中国名称)を正式競技種目として公認。
 さらに同月、中国国家体育委員会・社会体育指導中心は、北京・釣魚台国賓館を会場にして、「新春 全国招待試合」を開催した。
 さらにその年の二月、田邊会長は人民大会堂で李瑞環・国家政協会議主席と会見。
 六月、中国国家体育運動委員会・社会体育指導中心制定の統一ルールの研究のため、北京の王振剛氏ら三名を講師として招聘、研修会を開催した。
 このような経過を経て、国際的な統一ルールとして、中国国家体育総局制定の「国際公式ルール」は生まれた。
 そして同年二月の、第四次訪中・「内蒙古」大会、国際都市対抗麻雀「北京」大会同時開催でこの国際公式ルールが使われた。それ以後今日まで使われている。
 中國に賭けないマージャンが生まれた記念すべき年である。
 それまで賭博一色の麻将が、賭けない競技としての麻将に生まれ変わったのである。
 この年、田邊会長及び日本健康麻将協会が果たした役割は、たいへん大きく特筆すべきものだった。
 同じ時期であるが、次のエピソードは、田邊が中国に与えた影響を如実に物語るものであった。

伍紹祖・体育大臣の心境
古きを棄て新しきを揚げる

 一九九八年二月、長野冬期オリンピック大会の除幕式に伍紹祖・中国国家体育運動委員会主任が中国政府主席代表として訪日された。
 田邊はその機会をとらえて、伍紹祖・中国国家体育運動委員会主任を表敬訪問し、マージャンを正式競技種目として決定したことを記念して、日本製の最新麻雀自動卓を一台贈呈した。
 その折、伍紹祖・大臣は、色紙に『揚棄』と揮毫し、田邊への返礼とした。
 その色紙は額装され、今でも田邊の部屋に飾られている。
 揚棄とは、ドイツ語でアウフヘーベン【Aufheben】といい、哲学用語である。
 マルクスがよく使っており、筆者の若いころには、時折耳目に接した言葉である。
 少し解説を試みると、ドイツの哲学者、ヘーゲルの弁証法哲学の基本概念の一つで、辞書では次のように説明されている。
 「あるものを否定しつつも、より高次の統一の段階で生かし保存すること」
 伍紹祖・体育大臣の心境をよくあらわしている言葉であるようだ。
 「古くから賭博として行われてきた麻将は否定しなければならないが、新しく生まれ変わった賭けない麻将は生かし保存しなければならない」
 このような思いを、伍紹祖・体育大臣は田邊に伝えたかったのであろう。
 筆者は『揚棄』という言葉に長いあいだ関心を抱いてきた。それはマージャンの歴史がヘーゲルの弁証法のように発展してきたのではないだろうか、というふうに思える点にあった。
 もしそうであるなら、今後もそのように発展していくのだろうか。
 このことについて書くことになると、本題から大幅に外れてしまうのでここまでにしておきたい。

(つづく)

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