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東レタ

電車が到着して乗降口が開く。
車両の暖房と人いきれが入り交ざった独特の温もりは、暖を取りたい凍えた冷気の我さきに押し出されていった。

先週、久しぶりに夜の中央線に乗車した。
車窓の夜の街並みが懐かしい時代へと誘ってくれた。


上京したての十代のころ、仕事をしながら代々木にあるデザイン系のスクールへ通った。
勤め先は、夜学の大学生や専門学校に通う先輩社員が多い職場だった。
学費の半分は会社もち。授業のために就業時間まで勘案されていたのは、苦学の末に起業した創業者のマインドがなす待遇だった。

独身寮から職場のビルへは、路地からバス通りへと折れるだけの背あわせだったので、日頃は通勤という感覚すら無かった。
だからラッシュアワーを前に、都心への通学もまた楽しいもので苦にはならなかった。

夜間のクラスは社会人ばかりだった。
学ぶ喜びも大きかったけれど、職場を離れた人間関係というか、生徒枠というしがらみのない付き合いは、いつも和やかで楽しいものだった。

席が近い宇崎さんは、通学をはじめたきっかけが僕と同じで、職場で求められるスキルを習得するためだった。
六つ歳上の彼女は荻窪からの通いだった。千葉方面に下る僕とはホームが別々だったこともあり、一緒に晩御飯となると代々木駅の周辺になっていた。

なんとはなしに、駅とは逆方向のイタメシ屋へ二人で行くことが多くなった。
スパゲティ(パスタとは言わない)に、こんなにもメニューがあるのかと驚いたのはこの店だ( 当時の情報量、地方・都市の格差こんなだ. )。

「ご飯食べた?」
「う、ううん...」

短く言葉を交わした後、彼女を追うように教室を出て行くパターンが続いた。
宇崎さんにご馳走になることが多くなった。
せがんだ記憶は無いのだけれど、そんなふうになっていった。

少ない実入りでバイクのローンも抱えていたそのころ、助かっているという思いは大いにあった。
それでも、レジで支払いを済ませる彼女の後ろにポツネンと立っているときの心寂しさが、あさましさへの呵責の念とともに湧いていたのは思い出せる。
(店を先に出て、表で待つ図々しさが無かっただけでも、今は褒めてやりたい.)

就学も一定のカリキュラムを終えて、残す授業も数えられるぐらいのころ、新宿まで飲みにいこうと誘われ、はじめて断わった。
その日をきっかけに、仕事を早めに切り上げられるようになって、授業の前に晩ご飯は食べてきていることにした。

最後の授業のあとは大勢で飲んだ。
そしてみんなとは別れた。
今となって思えば、異業種の皆さんと繋がっていけるきっかけだったのだけれど、幼なかった当時そんな考えには及ばず、名刺交換さえ誰ともしなかった。
宇崎さん。あのころはごちそうさまでした。

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