古川孝次の私小説(1)

私が小学校の高学年のとき「作文」というテーマで題は自由という宿題が出された。私も一生懸命文を作って、あくる時に持って行ったが、ある女子生徒の作文が1位になった。当時はあまり本を読んだ覚えはないが、作文で一等賞を取った女の子から借りて読んでみた。
冒頭、「ただいま」と言って扉を開けた音を「ガラガラピシャーン!」というような擬音が入っていてインパクトがあった。そうか、こんなふうにつかみを持ってくるとみんなが注目するのか!と考えたものだ。他の文は忘れたが、作文を作るにはまず人に注目されなくてはいけないと思ったものである。

私は勉強が大っ嫌いであったが、本を読むことには興味があり、都度都度本屋に行って買ってくる。私はHow toもの、立身出世みたいな偉人話が好きである。どんなに貧乏していてもどんなに心が折れても、自分の目標、目的に頑張る姿が共感される。

立身出世のひとりは私の父であろう。今日はそのことを語る。
私の父はその当時、丁稚奉公をしてお金を儲けた。そのお金で、自らの父と母を引き取る。(私から見れば、おじいちゃんとおばあちゃんにあたる。)父の時代、親の面倒は長男が見るという風潮であった。が、父は次男でありながら、親の面倒を引き受けることにした。なので、私の家にはおじいちゃんとおばあちゃんがいた。二人は隠居をしていて、何もしていなかった。二人の住む部屋がありそこで1日を過ごす。食事を一緒にする時以外は部屋から出てくることもなかった。

家業をしていた父は長男に継がせることも考えていたために、次男の私は少し軽んじられていたように思う。だから、小学校のときはおじいちゃんおばあちゃんの部屋で生活し、二人の間で寝ていた。

父は厳格で寡黙。聞かない限り言葉を発することはなかった。
兄は父の期待に答えようと勤勉、京都の大学を受験し合格した。私は兄がもてはやされているのを見て不満を感じ、とにかくかんしゃくを起こした。
例えば、当時の小学生が誰しもやった野球道具。兄がバッドとグローブを買ってもらって、一緒に野球をやっている姿を見て、私も同じものが欲しいと駄々をこねて、一緒のものを買ってもらったことを鮮明に覚えている。

こんな感じで親を泣かせたことは社会人になってからも続き、人生のピンチがある度に父を頼ることをしていた。私は父にかなりのお金をせびったことを今でも思い出す。
親戚からは
「親不孝者」
と言って私をたしなめたが、私は
「親の力を借り続けているなら、それも親孝行」
だとウソぶいていた。

厳格な父から私が生まれるということは周りからすれば突然変異とかいう。しかし、父の兄弟の中で一人遊び人がいた。私はよくこのおじについて、名古屋の喫茶店に毎日二度付き合っていったものである。というよりはおじを誘い出したと言った方が正解。

そんな父がガンにおかされて入院をした。私はあまり見舞いに行かないと兄は思ったようで「たまには見舞いに行ってこい!」と言われ、その病院に行くと父は

「お前に寿命を短くされた!」

と嫌味な言葉。しかし、だまっていて反論はしなかった。父は自分がガンであるということを薄々気づいていたのだろう。当時は告知をしなかった時代であった。
そのまま、父は68歳で亡くなる。おじいちゃんが亡くなった時には涙が出たが、おばあちゃん、父、母が亡くなった時には涙が出なかった。

命が亡くなるということに対して慣れてしまったのだろうか?

次回は青春時代のことを語ろうと思います。

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