【シコイチ】軽率にママチャリで四国一周した話1
あたおか教師に連行された中2の夏
先日、甲賀流忍者!ぽんぽこさんが淡路島をチャリで一周するアワイチにチャレンジした動画が公開されました。
彼女は実兄であるピーナッツくんに続いて、昨年琵琶湖を一周するビワイチにも挑戦していました。ビワイチの動画を見た限り、もう二度とチャリでのチャレンジはしないだろうなって印象だったので、正直言って意外だなと思いました。
思いの他エモい動画に仕上がってるので、VTuber苦手な人にも是非とも見て欲しいです。
この動画を見ながら、中学二年生の夏休みに、軽率にママチャリで四国一周をしたことを思い出しました。
あれ昔だから許される行為であって、今だったら大問題になってただろうなと思うような出来事です。担任教師どころか絶対に学校ごと炎上してるようなレベルのアカハラ。フォローのつもりか後日他の教師たちに数年経ったら良い思い出になると言われたのですが、世紀が変わってもムカつくような旅でした(笑)
軍曹と呼ばれた脳筋体育教師
当時ぼくが通っていた学校に、軍曹と呼ばれる教師がいました。30代の独身体育教師です。理屈なんか微塵も通じない日常的に体罰を行うような脳筋。なぜかやんちゃな生徒には割と人気ある感じでしたが、賢い系の生徒からは煙たがられるというか、バカにされていました。何で軍曹というあだ名なのかは分かりませんが、まぁ言い得て妙だなと思っていました。
この軍曹が中学二年生の時の担任でした。こいつの根拠のない精神論が大嫌いだったぼくは、とにかく関わらないよう、学校生活すべてで目立たないようにしていた記憶があります。
軍曹はクラスの連帯感をとにかく大事にする男で、やることなすこと他のクラスとは違っていました。たとえば美術。体育教師の癖になぜか美術の授業に口を出して、よそのクラスが個人で写生する中、ぼくらだけ全員で巨大な一枚絵を描かされました。ゴールデンウィーク明けの体育祭も、どこのクラスもやってないのに揃いのTシャツを実費で作らされて、それを着て参加しました。クラス対抗の合唱コンクールも、夕方遅くまで残って練習させられました。
クラスの一体化と言えば聞こえは良いのですが、やってることはオッサンの独善独裁です。個性を出したりチームワークに異を唱える奴は、普通に殴られていました。
そんな灰色の中学生活でしたが、夏休みに入りやっと軍曹から解放されて、ぼくは軽やかになった気持ちで通学していました。というのも、塾でやるような夏期講習会を学校が実施していたからです。夏期講習の前半戦が終わった日、下校しようと下駄箱に向かっていると、講習会も担当しない体育教師の癖に学校にいた軍曹に呼び止められました。
明日7時に学校に来い。私服でいい、自転車で来い。それだけ言うと軍曹は去りました。ハァ?と思いましたが、中学二年生が暴力教師に口答え出来る訳もなく、教師に呼ばれたと母親に伝えて、翌朝学校に向かいました。
今から四国一周すると宣言する軍曹
学校に着くと、ぼく以外に四人のクラスメイトがいました。全員帰宅部で目立たないタイプの男子でした。7時ちょうど、ぼくらの前に軍曹が登場しました。通勤に使っているランドナーって呼ぶんですか?ツーリング用のチャリに荷物を満載しています。何だ?と訝るぼくたちに向かって、軍曹は告げました。
今から自転車で四国一周をする!
ああ、こいつ本当にバカなんやと思いました。軍曹以外は全員変速機もついていないママチャリです。こんなんで四国一周?寝言は寝て言えと口の中で呟きました。
何の準備もしていないし、体力的にも不可能ですと伝えるぼくらに、そんなものは気合いで何とでもなる!食事代も宿泊費も全部俺が出してやるから心配するな!と軍曹は言い放ちました。
お前らはナヨナヨしていて勉強もスポーツも中途半端、部活にも入っていない。そんなことで人生の大切な期間である中学生活を終えるのはもったいない。だから俺がお前らを鍛え直し、最高の思い出を作ってやる!
どうだとばかりに軍曹は続けます。一見するとマトモなことを言ってるようにも取れますが、単に自分の価値観の押しつけです。こいつに目を付けられないために、目立たないように振る舞った数ヶ月が裏目に出たと、ぼくは自分の行動を後悔しました。
まぁ反論しても無駄だなと思いこの場は軍曹に従うことにしました。四国一周には何日かかるのかと誰かが尋ねると、完璧に外周する訳ではないから、お前らでも2週間あれば大丈夫だと軍曹は応えます。いくら担任が一緒でも、突然二週間も家を空けてママチャリで四国一周とか、保護者が許す訳ありません。恐らく数時間後には親が迎えに来るだろうとも思いました。
全員がぼく同様にすぐに諦めたようで、軍曹の後を追ってペダルをこぎ始めたのは、集合から10分も経過していない時間でした。
真夏とはいえ午前中はまだ直射日光もなく、道も平坦なのでママチャリでも苦ではありませんでした。出発したのは高知市の中心地です。小一時間で仁淀川を越えたように記憶しています。ただこの辺りから少しずつ上り坂が出てきました。どういうルートを通るのか知りませんが、海岸沿いを走るコースではないので、すぐに峠にブチ当たることが分かっていました。
やがて山間部がやってきました。自転車道が整備されている訳でもなく、交通量の多い二車線の国道をママチャリで走るのです。上り坂はさほど急ではなく、ママチャリでもギリこぎ続けることはできますが、怖いのはトンネルでした。排気ガスの溜まったトンネル内をママチャリで走るのは、普通に恐怖を感じました。細い路側帯の横を、トラックがガンガン通って行くのです。
それでも何とか13時過ぎに須崎市に入ることができました。距離にして学校から30キロちょいでしょうか?ここで昼食でした。
軍曹に連れられ、小汚い中華料理屋でラーメンを食べました。メニューなど選ばせては貰えず、入るなり「ラーメン六つ!」と軍曹が勝手に注文したのです。もう全身汗だくで下着はもちろんズボンもTシャツも濡れているぼくたちにとって、冷房の効いた中華屋は天国のようでした。すぐに汗が引き、今度は寒くなるのですが、その状態で食べる熱々のラーメンは、これまでの人生でも一二を争う美味さだったように思います。
一時間ほどの食事休憩を終えて、再出発しました。須崎市の中心街から海沿いを走るルートです。高低差はさほどありませんが、道幅がめちゃくちゃ狭い道路で、クルマがやっとすれ違えるレベルでした。路側帯がない箇所もあります。ただ海沿いを走るのは心地良かったのを覚えています。
小学校に泊まる
夕方、名前も忘れたのですが、とある町に到着しました。海岸沿いの道が終わって最初の町です。今日はここで泊まると軍曹は宣言します。どこか宿に泊まるものだと思ったぼくたちですが、軍曹は小学校に入っていきました。
何しに小学校に入るのだと不安を感じるぼくたちの前に、ここの教師だという若い男が現れました。何でもぼくらの学校の卒業生で、軍曹の教え子だとのことです。今日はここの学校の体育館をお借りして寝るから挨拶しろ!と軍曹は怒鳴りました。体育館で寝るとかバカにしてんのか!と今となっては思うのですが、この時のぼくたちは疲弊しきっていて、文句を言う気力もありませんでした。
とにかく風呂に入りたいと思っていたのですが、学校に風呂はありません。そんなぼくらに小学校教師はプールで泳いで良いと告げました。水着など持っていないというぼくらに、裸で泳げと小学校教師は言います。ああ、こいつは卒業してからも軍曹と連絡取り合ってるような脳筋なんだと理解しました。ぼくは心の中でこいつを子軍曹と名付けました。
それでもプールの誘惑には勝てず、ぼくらは全裸になってプールに入りました。パンツもシャツもズボンもソックスも、全部洗えと言われて、洗剤も付けずに水道で洗濯し、軍曹が持って来たシャンプーで全身を洗ってシャワーで流しました。
子軍曹が持って来たバスタオルを巻いてプールを出ると、校庭の隅にバーべーキューの準備がされていました。半裸で食べるバーベキューは妙に美味かったのですが、疲れすぎて空腹なのにあまり食べられない不思議な感覚だったのを覚えています。
食後すぐにぼくらは全裸のままバスタオルを腹にかけて、体育館の冷たい床の上で眠りました。布団もないのに眠れる訳ねーだろ!?と思ったのですが、普通に朝まで爆睡しました。
翌朝、目覚ましに泳げと言われて、寝起きにプールに入りました。起床5分で水泳とか健康に良いのか疑問ですが、おかげで目が覚めました。ただ生徒は全員身体に不調を覚えていました。まずは筋肉痛です。大袈裟な表現ではなく、全身がボロボロになっていました。次に日焼けです。昨日は雲が多かった筈なのに、肌の露出している部分は真っ赤になっていました。腕など触れると痛いくらいです。
洗濯した衣服はすべて乾いていました。洗剤を使っていないのに、ニオイもありませんでした。また今日もチャリをこぐのかとウンザリしていると、子軍曹とその両親が朝からやってきて、朝食を振る舞ってくれました。
昨日のバーベキューも子軍曹が後片付けはすべてやってくれていました。親切な先輩だと当時は思ったのですが、脳筋縦社会の力関係が発露しただけだったと今では分かります。食後一列に並ばされてお礼を言わされました。そんなこと命令されなくても、普通に礼くらい言えるのに「こいつらは礼儀を知らないんで済みません」と、軍曹は子軍曹両親に愛想笑いをしていました。心底ムカつく笑顔でした。
二日目、次々とパンクするママチャリ
午前6時半頃、昼食用の弁当まで持たせて貰ってから、小学校を出発しました。四国に越してきて2年目のぼくに、ここから先の土地勘は皆無です。峠越えのような山道を通らないこと祈るしかありませんでした。
町を抜けると危惧した山道に入りました。この道も高低差はさほどないのですが、断続的な緩いアップダウンが続きます。海沿いらしいのですが、鬱蒼とした木々があり海は見えません。車幅は昨日の海沿いよりも更に狭く、道の両側には落ち葉が積もっています。クルマはほぼ皆無なので道の中央を走るのですが、そこもどういう訳か濡れている上に、所々ひび割れや穴があって何人かが転倒しました。
ここに来てマシントラブルの頻発しました。マシンってママチャリなんですけど(笑)三人が順番にパンクしました。そのたびに止まって修理するのですが、軍曹は指示はするけれど手伝ってはくれません。一度パンクすると一時間近く停滞します。そもそもママチャリでこんな道を走るのがムリなのですが、ルートを選ばず漫然と走っているからパンクするんだと軍曹はキレていました。
参加させられたぼくら五人は、目立たないキャラでしたが、別に仲間という訳ではなく、教室でも喋ったことは皆無です。無理矢理グループ行動を強いられてるとはいえ、急に仲良くなったりはできません。昨日も自転車に乗ってる時間はもちろん、小学校に着いてからも特に会話はしていませんでした。相手が嫌いだとか不仲という意味ではなく、単に会話する必要を感じなかったのです。
しかしこうもパンクが頻発するとそうも言ってはいられません。何の技術もないぼくらに、一人でパンク修理は不可能です。協力が不可欠で、次第にぼくらは言葉を交わすようになりました。何となく連帯感が生まれ始めた感じで、その根底にあるのは軍曹に対する恨みでした。
少し進んではパンクし、修理してまた進んではパンクの繰り返しです。どう考えても原因は悪路なのですが、軍曹はそのたびに叱責します。パンクするのは同じ三人です。ぼくともう一人は奇跡的にダメージなしで進んで来ました。おそらく自転車の根本的な強度も問題だったのでしょう。
ぼく以外にパンクしなかったのは、これまで一度も喋ったことないシモカワくんでした。シモカワくんはパンク修理を手伝いながら、ここならあいつ殺して崖から捨ててもバレないじゃね?とぼくらにだけ聞こえるように言いました。五人がかりなら殺れるだろ?後ろからデカイ石で頭殴れば一発じゃね?みたいなことを呟きます。本気なのか冗談なのか分からない口調でした。
まぁそれもありかなぁと全員が思うほど、二日目にしてぼくらは追い詰められていました。本気で四国一周するにしたって、まだ高知県から出てもいないのです。
パンク修理はまずタイヤからチューブを外して、そこら辺にいくらでもある水たまりや小川に浸して穴の空いた場所を探します。見つけたら軍曹が持っているチューブの切れ端を貼ってふさぎ、これまた軍曹のチャリに装備されてる空気入れで再度空気を入れる感じでした。チャリにくっついている状態でチューブから穴を探す作業が、とにかく面倒でした。
軍曹の計画がどんなもんか知るよしもないのですが、二日目は行程の半分も進めなかったのではないでしょうか?パンクで立ち往生する上に、道はこいでは登れないほどの坂道になり、出発地から30キロほど隣の町に着いたのはもう夕方でした。
道で寝る
コンビニで飲み物を買って貰って休憩している最中、軍曹は地図を広げて思案していました。もう直感で今夜も宿には泊まれないなと全員が気づいているようでした。軍曹は再びコンビニに入り、カップ麺とおにぎり三個をぼくらに支給しました。どうやらこれが夕食のようです。
ウンザリしながら再出発するぼくらに、一時間ほど走ってから突然「今夜はここで寝る!」と軍曹は宣言しやがりました。全員耳を疑いました。「ここ」ってのは道です。国道。四万十川沿いの道に、ちょっとした駐車スペースがありました。バス停も兼ねている「道」です。この男は道端で寝ると言うのです。
こんな場所で寝てたら通報されるぞと思うのですが、脳筋は当たり前のように自転車を降りて湯を沸かす準備をしました。何を言っても無駄だと思ったぼくらは、疲れ切って地べたに座り込みました。軍曹が湧かす湯で順番にカップ麺を作り、おにぎりを食べました。三個のうち二個は明日の朝飯だから食うなと言われた瞬間、五人がかりなら殺せるんじゃね?と真面目に思ったのを覚えています。
食後ぼくらはすぐに横になりました。シャツが汗臭く全身ベトベトで気持ち悪いのですが、疲労の方が勝っていました。寝具もなく地べたに横臥してるのでとにかく接地面が痛くて仕方ありません。軍曹は自分だけ寝袋に入っています。藪が近くて汗臭いぼくらに蚊が襲ってくるのですが、コンビニでお金を出し合って虫除けスプレーと日焼け止めを買ったのが役に立ちました。
親が迎えに来る筈だと信じていたぼくたちでしたが、救助は来ません。昨日の中華屋でぼくらが食事中に、最初に食べ終えた軍曹が一度店外に出たのですが、その時に保護者に電話していたとのことでした。信じられないことに、全員の親がこの馬鹿げた四国一周を歓迎しているらしいと聞かされた時の絶望感は、今でも忘れられません。
出発から二日経過したのに、まだ高知県です。本当に二週間近く掛かるんじゃないかと四国の地図を頭に思い浮かべました。街灯もない場所でクルマもほとんど通りません。見上げた星空が驚くほど美しかったことを覚えていますが、すぐにぼくらは眠りに落ちました。
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