猫目探偵鯖虎キ次郎の冒険「鋼の嘴」2

□鯖虎探偵社

 たいへんだたいへんだ、やばいよ、せんせえ、たいへんだたいへんだぁ。

 慌てた様子のまるまっちい小男が、池袋西口商店街を駆けている。そのままのスピードで赤いレンガ造りの細長いビルの階段をドタドタ駆け上がっていく。
 3階の踊り場には猫用の食器が整然と並び、目やにをこびりつかせた三毛猫が残り少ないキャットフードを懸命に食べていた。男はその脇をおっとっととー、と通り過ぎてと目の前の部屋に駆け込んでいく。

 ガチャッ、ドカドカドカ、バタン。そのドアの脇には銅板に刻まれた「鯖虎探偵社」の看板があった。

 男はぜいぜい言いながら裏返った声を出した。

「たいへんだ。先生、殺されちまった」

 デスクの向こうで、一人の紳士が萩原朔太郎の詩集から眼をあげる。
 ところどころ白髪の混じったきれいな七三頭に、細長い顎。大きな瞳は普通の人の眼より若干縦に長いようだ。顔をあげると同時に、その瞳はきゅっと細さを増した。この猫目の紳士は、鯖虎探偵社の社長兼唯一の探偵、鯖虎キ次郎52才だ。

「針筵くん、何事だい?」

 今事務所に大慌てで飛び込んできた男、針筵慎之輔は、鯖虎探偵の助手だ。
 まるっこい顔にポマードでかためた髪がぴったりと張り付いている。この髪型は、台風程度の風では絶対に変形しない頑丈なつくりだ。まるで丈夫な万年筆で力まかせに引いた線のような眼をいっぱいに開いて(いるつもりなのだろう)、非常事態を懸命にアッピールしている。
 彼は探偵助手といっても本業は近所のバー「ボブテール」のマスターだ。店の売り上げなどあてにしなくていいご身分らしく、店は女の子にまかせてもっぱらここ鯖虎探偵社に入り浸り、無給の押しかけ探偵助手をやっているのだ。

 針筵助手の話によるとこうだ。
 板橋区志村の一軒家で男の死体が発見された。それが今調査中の案件の依頼人だ、というのだ。

「やばいですよ」
「ふむ。」

 そう答えて、鯖虎探偵は続けた。

「お金の事なら心配ないよ。うちは全額前払い制だから」
「いやいやいやいや、先生、そうじゃないでしょ」

 針筵は、ハンカチで額をごしごしこすった。

「そういう事じゃなくて、いやだなぁ、ころされたんですよ、先生。殺人ですよ殺人事件」
「ふーむ。しかし、いいか針筵君。依頼人のプライベートに首をつっこんじゃいかんね。我々は職人なんだから、依頼された仕事だけを黙々とこなす。そのクオリティに対してお金を頂戴する、それだけなんだよ。依頼人が巻き込まれた殺人事件なんてプライベートの極致でしょうに」
「そりゃそうですけど …」

 言葉に詰まった針筵は、未練がましくぶつぶつなにか呟いている。

「事件なのにな. …」

 そのとき隣のダイニングから、なーお、という野太い猫の声がした。
 ゆさゆさと巨獣の迫力で姿を現したのは、一匹の大きなな虎猫だった。全長70センチはあろうかという奇跡的に巨大な猫は、ごろんと床に横たわると真っ直ぐに鯖虎をみあげ、鼻の穴を2回膨らませた。ごろんに鼻膨らまし2回は、おなかを掻け、という命令なのだ。
 鯖虎はやれやれと椅子から立ちあがると、猫の傍らにあぐらをかき、そのおなかを掻いてやった。

 臆面もなく腹を放り出して恍惚とする巨猫。だいぶ毛づくろいをサボった、ぼっさぼさの尻尾が、別の生き物のようにぐいっぐいっと動いて、その腹からは抜け毛と埃が盛大に舞った。

「ほいほい、殺人事件だにゃー、とめきち」

 巨大虎猫とめきちは、ガ.ラガ.ラ、とことさら大音響でのどをならした。

「先生.、でか猫構って、まったりしてる場合じゃないっつうの」
「そんなに気になるの、針筵君」
「ういっす」
「気になるならまぁ、しかたないにゃー」
「にゃーっすよ」

 鯖虎探偵も重い腰をあげたようだった。

 死んだ依頼人の名は山田一郎。
 工夫がなさすぎて逆に忘れる事のできない名だ。年齢は29才。依頼内容は人捜しだった。

 三ヶ月程前のある日、山田一郎は鯖虎探偵社のドアをおずおずと開き、ごめんください、と言った。針筵がパーテーションの向こうから出てきて、あ、ご依頼ですか?と問うた。一郎はハイ、と特徴のない声で答えてもじもじと立っている。どうぞこちらへ、と針筵は依頼人を招き入れた。
 ソファに座った彼はあいかわらずもじもじしていた。
 七三頭に、白い顔、一重の細い眼。緊張した頬に、大きすぎるワイシャツの襟が食い込んでいた。その上に羽織った黄緑色のカーディガンは逆にちょっと小さすぎ、袖口が窮屈そうだった。針筵の頭に、なんだかノートの落書きのような顔だな、と失礼な感想が浮かんだ。

 そのうち、巨大猫とめきちがゆさゆさとやってきて、彼の靴とズボンの裾の匂いをあらためた。検分が済み、巨猫が去ると、ふっと葉巻の香りがただよって探偵が現れた。
 依頼人は女性が写った一枚の写真を探偵に差し出した。そして札の入った封筒を内ポケットから取り出し、母を捜してください、と言った。

 調査はもっぱら針筵が担当した。鬼子母神近くのアパートに一人で暮らしている事を調べ上げ、報告書を仕上げようという段階で依頼人は死んだのだ。針筵にしてみれば自分のクライアントだったわけで、事件にこだわりたくなるのも無理はなかった。

「あの母親に関係あるんですかね?」
「さぁねぇ。あるかもしれないし、ないかもね」
「でも母親を捜してウチに来た。母親が見つかったと同時に殺された…関係あるんじゃねえですかい?」
「予断は禁物だよ、針筵君」
「ういっす」
「とはいえ、まずは鬼子母神の母親だな」
「なーお」

 最後はとめきちが返事をした。


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