猫目探偵鯖虎キ次郎の冒険「鋼の嘴」3

□鬼子母神の女

 鯖虎探偵と針筵助手は、さっそく鬼子母神に向かった。
 池袋駅東口から明治通りを行き、その先が雑司が谷というところで、鯖虎は路地に入っていった。
 針筵もあれ?という顔で続く。

 ラーメン屋とクリーニング屋を通りすぎて、鯖虎が立ち止まったのは、一軒の煙草屋だった。

 店先の呼び鈴を押す。
 りりん、と鳴って、奥から和服姿の品の良いお婆さんが顔を出した。

「あら、いらっしゃい」
「お久しぶりです、ちょっとジッポのオイルが切れてしまって」
「はいはい、コレですね」

 お婆さんは、ガラスケースの中からライターオイルの小さい缶を出した。
 鯖虎の馴染みの煙草屋、須藤商店の富さんだ。

「陽子さん、どうですか?」
「うーん、どうもねえ、もう動けないみたい」
 
 富さんは小さくため息をついた。

「そうですか……」

 陽子さんは、富さんの飼っているアビシニアンだ。利発な細身の猫だったが、22年も生き、ある日突然動けなくなってもう1年になる。
 針筵もちょっと心配顔になって、富さんの背後を伺った。
 座敷の真ん中にきれいに千代紙で飾ったダンボールの箱が据えられている。箱からは点滴のチューブや、酸素吸入用のホースが伸びていた。
 箱の中に、ふかふかの毛布に乗せられた、弱々しいこげ茶色の固まりがかいま見える。かすかに息はしているようだ。

「それじゃ、お大事に」
「ありがとね」

 二人は煙草屋を後にした。

 雑司ヶ谷のだだっ広い墓地を抜けて鬼子母神に進む。
 鬼子母神の境内には桜の花びらが舞っていた。

 鯖虎が境内に入っていくと、そこかしこから、ふくよかな姿の野良猫たちがそろりそろりと儀式めいた様子であらわれ、後につづいた。白、白黒ぶち、黒猫に虎猫、三毛、錆び、茶、……猫の毛色の見本帳みたいな整った体型の七匹の猫たち。そのさらに後から針筵がせかせかとやってくる。

 境内を出ると猫たちは一列に並んで鯖虎を見送った。列の真ん中にいるひときわ優雅な白猫が、澄んだ声でにゃんと鳴いた。
 鯖虎はその声に軽く手を振って先を急いだ。

 境内を通り抜けて住宅地へ入る。しばらく路地を行くと安っぽいモルタルのアパートがぽっかりと目の前に現れた。鬼子母神からついてきた桜の花びらが目の前をはらはらと舞い落ちる。

 塗料もとうの昔に剥げて錆びついた、安普請な金属階段をガタコン、ガタコン、と上っていく。
 アパートの2階にその部屋はあった。
 菓子箱をばらして安物のボールペンで書いたと思われる表札には「山田光恵」と書かれている。事務用の華奢なセロハンテープでドアの脇に貼り付けられていた。
 体育会系の針筵、コンコンとノックしたつもりが、ドアはガンガンと鳴った。

「針筵君!」

 針筵はまるまっちい肩をすくめた。

「ちょえっす……」

 ドアの奥からいかにも病弱な初老の女が姿をあらわした。
 もう昼過ぎだというのに、花柄パジャマにピンクのカーディガン姿のその胸には、幸薄い顔のミルク紅茶色の猫が抱かれている。猫はにゃーと鳴いたつもりだったのだろうが声は聞こえず、か細い息が、ぁーはっと漏れただけだった。
 飼い主の顔はなお幸薄い。グレーと呼んでもいいほどに薄い色の眼、細い眉、青白いこけた頬、こめかみから垂れた後れ毛が寂しさをさらに際だたせている。
 その存在感の儚さといったら、顔の向こうにアパートの部屋が透けて見えそうだった。

 女の目が鯖虎の顔をとらえ、怖ろしいような懐かしいような、不思議な色になった。
 ごくり、と女はつばを飲み込んだ。

「息子さんの事で、すこしお話が……」

 落ち着きはらった低音で鯖虎が告げた。声帯の振動が効率よく胸板をゆらし、その声は周囲の空気を暖かい彩りに変えた。それを聞いて光恵はますます肩をこわばらせた。

「息子……?」

 女の目がますます遠くなった。針筵が引き継ぐ。

「山田一郎さん……あなたの息子さんですね」

 針筵はポケットから写真を取りだし、光恵の目の前に差し出した。

「おととい、遺体で発見されました」
「知りません、私には子供はおりません」

 光恵は少し唇をふるわせ、胸の猫をぎゅっと抱きしめた。
 その眼は写真の中で笑っている若い男に釘付けになっている。
 やっとの事で視線を写真から引きはがすと、くっと唇を噛んだ。
 光恵の顔を見つめていた鯖虎の瞳が、ふと細くなった。急に何かを思い出したのか、すうっと息を吸うと口を開いた。

「光恵さん、あなた、マドリードに居たことは……?」

 光恵はビクッと肩をすくめ、小さな声で言った。

「い、いえ、ありません。海外には……お引き取りください」

 ドアが閉まった。
 その反動で部屋の中にこもっていた安物の猫缶の悲しい匂いが漏れ出て、ほんのすこしの間、あたりを漂った。


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