猫目探偵鯖虎キ次郎の冒険「鋼の嘴」4

□バー・ボブテール

 まだ宵の口、8時では、バー「ボブテール」に客はいなかった。
 バーと言ってもそう気取った店ではない。カウンターと、四人がけのボックス席が2つBGMは無い。アーリーアメリカン風にしたかった痕跡が見受けられる店内の一番奥には、立派な神棚が思いつきのように祀られていたが、それも年月のせいか、妙に空間になじんでいた。

 雑司が谷の調査を終えた鯖虎探偵と、助手兼この店のオーナー針筵が、ぎぎ、と木製のドアをあけて入って来る。

「もー、マスター、どこ行ってたんですか、たまにはお店の事もやってよ、もう」

 店をまかされている……といっても本人にはそのつもりは全くなく、針筵が勝手にそう決めているだけなのだが……バーテンダーのともちゃんが、カウンターの奥からブーたれた。洗いざらしの白いTシャツに黒いままのショートカット、愛嬌のある大きな目が、抗議口調とはうらはらに、3分の1ほど笑っていた。
 針筵は、どうもともちゃんには頭があがらない。

「はいはいはいはい、わかってますって。先生にハイボールねいつもの」

 針筵のはいはいの連発に押されて、鯖虎は思わず謝った。

「ともちゃんすまないね」
「なに謝ってるんですか、足手まといな助手に迷惑かけられてるのは先生のほうでしょ?」
「イヤイヤ、有能な助手さんだよ」
「ほらね、ともちゃん、いつも言っているのほんとでしょ?」
「ばかねマスター、先生困ってるじゃないのよ」

 その時、店の奥の神棚から黒い影が姿を見せた。
 久しぶりの鯖虎の声に気づいて姿を現した黒猫は、神棚の大黒様の脇からタタンとカウンターの上に降り立った。伸びをいつもの半分で切り上げて鯖虎の顔をみあげ、なふん!と鳴くと、お約束通り膝にいそいそと乗ってきた。ぼんぼり尻尾がつんつんしている。鯖虎の手をじょりじょりと舐め回し、しばらくしてぷっとおならをして膝の間におさまった。

「よ、クロ助、調子はどうだ?」

 黒猫は、こたえるかわりに大きなあくびをした。あくびの頂点で「アッ」と小さな声が出た。

「しかし先生、絶対に関係ありますよ、あの様子。子供はいないなんて言っていながら、眼が語ってましたよ」

 鯖虎はにぶい歯痛のようなひっかりを感じながらこたえた。

「……そうだな……」

 ともちゃんがハイボールを差し出した。間髪を入れずに針筵が小皿にのったカシューナッツを差し出す。クロ助は短い手を伸ばして、興味もない癖にナッツをツンツンつついた。

「しかし先生、帰り際に言っていたマドリードって……」
「……実はね針筵君、私は、あの母親に会った事があるかもしれない」
「光恵に、ですかい?」
「うん」
「ほんとですかい?」
「依頼人の一郎氏が出した写真を見たときは、別段何も感じなかったんだが」
「んー、そう特徴のない顔ですからね」
「今日アパートに彼女を訪ねて、あの眼を見たとき……」
「眼?そういや少し色の薄い日本人離れした眼でしたね。西洋人形みたいな」
「そうなんだ。あの眼……」

 そう言ってハイボールを一口すすり、探偵は深く物思いの淵に沈んでいった。

 鯖虎は、かつてしばらくマドリードに暮らした事がある。
 その乾ききった石の都での3年間は、遠い記憶の暗闇に沈めたままにしておきたいおぞましい過去だった。しかし今、マドリードの夜を彩るオレンジ色の水銀灯がちろちろと力を取り戻し、鯖虎の封印された記憶を少しずつ照らし出しつつあった。

 鯖虎の脳裏に唐突に閃光がまたたいた。その中に恐ろしい顔があった。
 それはニワトリ、巨大な白色レグホンそのものだった。透き通るような色白の顔から飛び出した黄色いくちばしが菱形に開いて笑っている。くちばしの縁には血糊がこびりついていた。その胸板はあくまで厚く、身長は2メートルを超える巨体だ。

 人食いにわとり、オ・ラ・レグホン。

 マドリードの住民を心底震え上がらせた凶悪な殺人鬼だった。
 オ・ラ・レグホンは人間として生まれたものの、遺伝子のいたずらでその頭部に雄鶏の鶏冠と強靭なくちばしを授かった男だ。真っ赤な鶏冠をぶるんぶるんと震わせ、鋼鉄のくちばしでマドリード市民の命を次々に奪った。

 当初は、旅行のつもりでその地を訪れた鯖虎だったが、知り合いである市の有力者の依頼でレグホンが引き起こした連続殺人事件に関わることになったのだ。数日のつもりで訪れたマドリードで、鯖虎は3年もの間、怪物との戦いにあけくれる事になったのだ。

 探偵の脳裏に蘇ったオ・ラ・レグホンは、マントを翻し、鯖虎の前に立ちはだかっている。鯖虎のトレンチコートのポケットの中で仔猫のとめきちが震えている。高笑いするレグホンのたくましく脈打つ腕の中には、目の色の薄い痩せた日本人女性が抱かれていた。その顔は山田光恵だった。彼女のお腹は大きくふくらみ、明らかに妊娠していた。そのお腹にいたのが依頼人山田一郎だったのだ。
 光恵のグレーの眼がひくひくと痙攣するように、鯖虎の顔を見つめていた。それは恐怖のような、哀願のような、悲しい光を放っていた。


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