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2024年1月号時評

「女ことば」ですわよ
 
 すこし前の刊行だが『女ことばってなんなのかしら?「性別の美学」の日本語』(平野卿子著・河出新書)が面白かった。「女ことば」とは「かしら」「のよ」「わ」など特有の終助詞や、「お砂糖」「お花」のように接頭辞「お」をつける、「うるせえ」(訛った母音)や「畜生」(罵倒語)「尻(ケツ)」(卑語)などを使わない、といった言葉遣いを指す。明治時代の女学生の間で流行った言葉遣いが、戦後に「丁寧・控えめ・上品」といった「女らしさ」と結びつき、さらに「女はそうした言葉遣いをすべき」という認識も生まれ、広められていったのだという。性差別的な表現で溢れる日本語を、翻訳家の視点から読み解く良著である。 
 わたしはずっと短歌で使われる「女ことばが気になっていた。

 薄っぺらいビルの中にも人がいる いるんだわ しっかりしなければ  雪舟えま『たんぽるぽる』
 洗脳はされるのよどの洗脳をされたかなのよ砂利を踏む音  平岡直子『みじかい髪も長い髪も炎』
 ライフルのかわりにあまたチューリップ抱けば ここが最前線よ  塚田千束『アスパラと潮騒』
 銭湯に天使の壁画 色あせてゐるけどさうだつたつてわかるの  睦月都『Dance with the invisibles』
 しわ寄せのしわしわの下にいる人のしわの重みを分け合いたいの  寺井奈緒美「ししししし」『うたわない女はいない』
 どの星もどこかに向かっているように見えるの夜のスロージョギング  谷川由里子「残暑」『現代短歌パスポート2 恐竜の不在号』

 これらの歌に見られる「だわ」「のよ」「よ」「の」は、丁寧で控えめで上品な女らしさを表すために用いられているのではない。
 雪舟の「いるんだわ」は四句を切断するかたちですっくと屹立し、同時に風景と心情を繋ぐ。「いるんだよ」では表現できない、自分だけに向けられた、自分らしい鼓舞の言葉だ。平岡の歌も、もしも「洗脳はされるのだどの洗脳をされたかなのだ」だったら台無しなのである。短歌における「の」や「のよ」はどちらかと言えば音量は小さいが、それは「女」の弱さを表すものではない。砂利を踏む音にかき消されそうになりながらも、小さく繰り返されるフレーズには確かな抵抗がある。そのことこそが重要なのだ。強さをまっすぐに表現しているのが塚田の「よ」だ。「ライフル」という物々しい具体、踏みしめるような力強い韻律にのって最後に言い放たれる「ここが最前線よ」。これも「最前線だ」では駄目で、敢えて「よ」が用いられることによって、困難に立ち向かおうとする一人の女性の意思がより鮮やかになる。睦月、寺井、谷川の歌は「の」のバリエーションとして挙げてみた。どれもさりげない呟きだが、「の」のたった一文字が、透明感や気持ちの熱さ、心の奥行きを生み出し、一首の表情を豊かにしている。
 「女らしさ」と結び付けられ、女性を縛りさえしてきた「女ことば」は、短歌においては歌を支え、味方になってくれるのだ。
(北山あさひ)