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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉⑥

多様な表情
         今井恵子

 まだ街のあちらこちらに、戦争の名残が色濃くただよっていた東京の世田谷で、わたしは生まれた。三鷹、国立、横浜と移り住み、今は埼玉の鴻巣に住んでいる。あらためて、関東地方の地図を開くと、東京という巨大都市が、戦後急速に膨張してゆくにしたがって、東京の同心円を外側へ、つまり周縁へ移住しながら街の変貌を眺めてきたのだと気づく。
 東京にかぎらず都市の周縁は、郊外とか近郊とか呼ばれ、「地元のもの」と「よそもの」が交錯する場所である。交錯はするが、両者は容易に混じったり溶けあったりしない。人間も、文化も、生活様式も。近年の急速な都市化を象徴するように、駅前に出店したスタバやセブンイレブンやユニクロは、何処の駅周辺の景観も同じように均質にしてゆくが、しかし「地元のもの」と「よそもの」は、三十年や五十年くらいでは、簡単に、混じったり溶けあったり馴染んだりしないものだ。住んでみるとよく解る。「地元のもの」は「地元のもの」として、「よそもの」は「よそもの」として、対立したり、相互に学んだりして、影響をあたえつつ、折りあいつつ、それぞれの思いを胸奥に潜ませて関係を築き、適切な距離を測りながら共存している。両者が簡単に同化しないことは都市を豊かにしてゆく上でとても大切だと、わたしは思う。そのことが多様性を保証するからだ。わたしたちは、先人が培った暮らしの諸々を、継承し太らせ豊かにし、あるいは否定し拒絶しながら暮らしているが、人の根幹のところは、思うほど易々とは変化しない。この、「よそもの」と「地元のもの」という異質なものの共存は、都市が人々を惹きつけてやまない魅力の一つである。
 ここでいう都市は、行政区分のように固定され管理される特定地域ではない。また、高層ビルが立ち並ぶ現代建築物の景観をいうのでもない。わたしの思い描く都市のイメージは漠然としているが、たとえば首都圏というときのような、中心へ中心へと包含されてゆく(中心から見れば周縁へ周縁へと膨張してゆく)空間に働いている、複雑で流動的なシステムである。表層的には「よそもの」が「地元のもの」を凌駕してゆくように見えながら、しかし、「地元のもの」が、溶けて無くなったりせず、その内側にうち重なって潜み共存しているような場所である。何かの拍子に、普段は見えなかったものが、にょっきりと顔を出し、歴史や文化の記憶を照らし出す。
「まひる野」の三月号「疎外と倦怠、あるいは犯罪」(滝本賢太郎)に「都市というのは様々な要素から成り立っているが、なによりも速度だ」という指摘があった。「地元のもの」と「よそもの」の関係を考えるのに示唆的である。両者が簡単に同化しないのは、同じ空間に居ながら、それぞれ違う時間を生きているからではあるまいか。わたしたちは意に反した速度で生きなければならないこともしばしばだが、それでも各の生活様式に合った速度を何とか保ちながら生きている。それは普段あまり意識されてはいないが、しかし、周囲をよく観察すると、意外にも身近なところに、いくつもの異質が息づいているものである。ここでは首都圏に暮らす目の捉えた、「都市」の表情のうかがえる五首を読んでみよう。
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巣鴨のマクドナルドには、ナゲットに
「とりのからあげ」
         と大きくルビがあるという。
                  『光と死語』吉田恭大


 東京山手線巣鴨駅近くのとげぬき地蔵商店街は、老若男女混然とした庶民の街である。日本マクドナルドのナゲット発売は一九八四年だったというから、今では誰でも知っている商品だと思われがちだが、巣鴨のマクドナルドには、「大きなルビ」がつくほどに、ナゲットを知らない客がたくさんやって来るというのである。マクドナルドは何処にもあるが、街の表情は一様でない。この歌は、ナゲットに馴染のない人々が駅前を闊歩している巣鴨の賑わいを想像させる。ルビという細部が、街の抱え込む雑多な彩りを髣髴とさせる。

ひかりまばらな壁の震えを知るためにコンクリートの窪みに触る  
        『やがて秋茄子へと到る』堂園昌彦

 ほんのり柔らかくかつ繊細な思惟を思わせる三句までに対して、四句に置かれた硬質な物体「コンクリート」は不思議な感覚を呼び起こす。「コンクリート」は、現代の建築物に欠かせない素材というだけでなく、無機的直線的機能的な建造物の、ひんやりとした触感を想起させる。対して「震え」「窪み」には身体感覚がはたらき、歌が都市を構成する二つの面、すなわち機能性と身体性を照らし出す。

壁のように堤防があって荒川は見えないけれど壁をさわった
             『広い世界と2や8や7』永井祐

 東京湾にそそぐ荒川の中下流域には、たびたびの洪水に見舞われたことにより高い堤防が築かれた。都会を流れる川の両岸では、治水のための人工物に視界を遮られる。「堤防にさわった」でなく「壁をさわった」に注目したい。一般的に「堤防」と呼ばれているそれが、生身の目の前に現れた「壁」として捉えられる。この歌の特色は、「壁」に対峙するのではなく、手触りを確かめるような肯定感にある。「見えないけれど」という逆接がそう感じさせるのだろう。

ことしまたあらはれたりし銀行の暗がりを負ふ蛍売るひと
          『緑の斜面』篠弘

 蛍は風鈴や金魚や鈴虫と同じ夏の風物である。毎年同じ時期の同じ場所に、都会では見られなくなった蛍を売りにくる人がいるらしい。閉店後の銀行前の暗がりに光る蛍を、残業帰りのサラリーマンが子どもへの土産に買って帰るのだろう。この歌を読むと、河原で拾った石を河原に並べて売っている、つげ義春の「無能の人」を思い出す。歌に詠まれている「蛍売るひと」は有能な人、つまり商才のある人で、「銀行の暗がり」に蛍を運んできて売っている。河原で石を売っても売れないが、都会で蛍を売れば売れる。商品になるのである。深読みすれば、「無能の人」と「蛍売るひと」の対照は、どのようにして商品は商品となるのか、シンプルな順路がわかる。作者は季節を思うと同時に、そこに現れた、都市の機能性や論理性に馴染まない、別種の何かを感じとっている。蛍は、異質でありながら商品として、都市の片隅に冷たい光を放っているのである。

ゆるきやらの群るるをみれば暗き世の百鬼夜行のあはれ滲め
        『渾沌の鬱』馬場あき子

「くまモン」や「ひこにゃん」など、とぼけた味わいのキャラクターが地域振興をアピールしながらゾロゾロ歩いてゆく様が「百鬼夜行」の連想を呼んだ。「あはれ」には、作者の時代への嘆息がこもるのだろう。「百鬼夜行」は、深夜の都市を徘徊する鬼や妖怪の群れである。今昔物語集や宇治拾遺物語などの説話にしばしば登場する百鬼夜行は、都市に馴染めず疎外された者たちである。それらが内裏に象徴される権力をおびやかす物語を生んだ。先に述べたように、都市は、ポジティブな利便性や論理性や機能性と同時に、ネガティブな非論理性や言語化しえない情念や謎を包含しており、両者は、ついに馴染んだり溶けあったりせず、対立したり威嚇したり懐柔したりして、都市に異質なものの共存を生み出している。この歌は、都市の内部でうごめき、次々に新たなものを生み出す多様な不気味さを「ゆるきやら」に見ている。楽し気な「ゆるきやら」の出現に、「暗き世」が透けて見える。ほんとうに楽しんでいていいのかと、語りかけるようである。

「都会にゐて小鳥を飼ふといふことは、小鳥そのものよりは、我等の生れた野の生活を再現するためだ。籠の雲雀のねに聞きほれてゐる心持は、野の雲雀が空になくねを聞くよりも親しみがある。籠の雲雀は野や空を見せてくれる。現実にあらぬ現実をみせてくれる。藝術も現実にあらぬ現実の再現にあると思ふね。」
「さうだ。現実に直面して動きのとれぬ藝術は、鷹に追撃された野の小鳥といふ姿がある。唯苦しくつて、余裕がなくつて、陶酔や恍惚がなくつて、唯現実の苦痛があるばかりぢややりきれない。」
         『前田夕暮全集 第三巻 「緑草心理」序文』

 前田夕暮は「都会」と「野」を行き来した人である。野を知る人として都会に暮らし、都会を知る人として野に暮らした。「現実に直面して動きのとれぬ藝術」と、教条主義的に写実を説く当時のアララギ派を批判しながら、現実そのものではなく、「再現」によって生まれる陶酔や恍惚を強調した。白秋の童謡で、カナリアの囀りの記憶が、「歌を忘れたカナリア」を前に、「忘れた」ことに気づくように、その美しさを愛でるのである。記憶の再現という点がとても興味深い。
 都市というと、無機的機能的人工的な面が強調されがちであるが、周縁を呑み込みながら膨張してゆく成立過程を思い浮かべれば、新たな生成を繰り返すダイナミズムに気づく。「よそもの」も「地元のもの」も、その内部に共存する多様な表情を見せる。都市を歌うということは、畢竟、都市の暮らしの局面に息づいている、多様な表情を発見し、それに心を躍らせることである。


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