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時評2023年2月号

抒情ではないが、だがいい

               滝本賢太郎

 

 自死に関する本を二冊続けて読んでいた。一つは佐藤清彦『にっぽん心中考』。情死大国日本の心中の事例を細かに紹介する作だ。もう一つは保阪正康『死なう団事件』。原理主義的に過激化した新宗教「死のう団」こと日蓮会青年部の盛衰を描く。内部の裏切りや警察の弾圧の下、日蓮が強調した不惜身命を、彼らは死こそ真の信仰なりと解釈するに到る。

 これらの全く質の異なる死を読みつつ、死は詩であろうかと思ったのは、心中に過分に短歌的な濡れた抒情を思ったせいだろう。対する「死のう団」の死に抒情はないが、詩は燃えている。この流れで書くのはあれだが、先日中島裕介が第三、第四歌集を同時に刊行した。第四の『polylyricism』を読んで思ったのは、正にこの「死のう団」の死、いや詩だった。

既読すらつかないLINEスタンプの 洗濯ばさみがおのずとわれる

道傍に落ちたポイントカードを踏むほどまでは不機嫌でない

 中島の歌は第一歌集から徹底的に技巧的である。しかも彼は、短歌のリズムに寄せて外国語の訳のようなものを自作につけ、ほぼ別の短歌を作ったり、極端なまでのタイポグラフィーを用いたり、短歌とはおよそそりの合わないミニマルミュージック的な技巧を積極的に導入する。もっともこれは、彼のケレン味ゆえではない。逆説的な言い方だが、むしろ抒情に過剰なまでに誠実に、正しさを求めるがゆえである。今回の歌集の右に引いたような一見素っ気ない歌において、かかる技巧は短歌が通常どうしても含む水の抒情の排除に向けられている。実景と喩が上句と下句に対応しているように見える一首目は、喩が極限までソリッドである。洗濯ばさみが割れるほどに乾けば抒情の入る隙間もなく、ただ実景の苦みが鋭く残る。抒情の排除とはしかし状況の正確な観察であり認識である。感情を挟まず流されず受け止める。「ポエジーに正しさはあるというのなら私は正しく間違えている」と詠う強烈な自負は、彼のこの誠実さに由縁する。二首目の「踏むほどまでは」には、自身で不機嫌の度合いを測るごまかしのなさが印象的だ。とはいえ不機嫌ではあり、その感情の混沌もそのままに捉える感触は伝い、苦みはやはりざらりと残る。

 昨今の流行りの形容に倣って、抒情を乱暴に「エモさ」と呼べば、抒情の消去もやっぱり「エモい」。抒情の酸欠は別の恍惚を生むらしい。それを進める中島はしかし、抒情を信じる歌人でもある。

柚子の実よきみも産まれたかったろう 骨を戻した傘をさしてやる

情報や状況と共謀し、雰囲気で抒情を拡散させない。抒情は抒情のみに語らせればそれでよい。酸欠空間でこそ、詩は生きる。

 小野十三郎のいわゆる第二芸術論批判を、わたしは無邪気に無視できない。今更戦後なんてと言われても、この湿っぽい水の抒情との訣別を、わたしはわたしなりに模索し、水に対して風の抒情を思いながらあれこれもがいている途上である。中島の今回の方法論に惹かれるのは、彼の歌が風の歌のラディカルな実例にして、遠い小野への確かな返答にも思えるから、であろうか。
(滝本賢太郎)