見出し画像

時評2021年12月号

理屈の梯子を外す

 自分の歌が理屈っぽく感じる時がある。一から七ぐらいまでを言葉にして、残りは言外にとどめたいのに、気づくと一から十五ぐらいまで言葉にしている。自分にうんざりしつつ、でも作らないと落ち着かないという悪循環が続くと気分も落ち込む。これを吐き出そうとしてもマスクに遮られ、コロナ禍により長引くマスク生活は、歌を作る気持ちにも影響するのだと感じている。とはいえ今後もしばらくはマスクを外せない生活は続くだろうし、少しでも浮上したいと思いながら何冊かの歌集を手に取った。

 地下駅に降りゆけばしんと耳が鳴る 遠い氷河の崩るる音か
 はじかみのうすくれなゐをかりかりと噛めば心に夕映えがくる
 冬苺すすげば水に身ぶるひて心臓のごとくかがやく、いとし

 日高堯子の第十歌集『水衣集』から引く。歌集には介護をしていた母が亡くなり、その死を詠む歌が多くあるが、掲出歌は日常の一場面である。一首目は、地下鉄の駅に降りる時の耳鳴りであろう。何本もの路線が交わる駅では、ホームに辿り着くまでにかなり深く下ってゆく。気圧の変化に敏感な耳は耳鳴りを起こすが、主体はそれを遠い海の氷河が崩れる音だろうかと思う。地の底へと降りてゆく自分と、海の底へ沈んでゆく氷河の一角が耳鳴りを通してふと重なる。二首目は、はじかみのうす赤く色づいた部分を噛むと、心に夕映えがくるという。はじかみのほんのりと赤い部分が空一面の夕焼けへと広がり、心がわっと軽くなるような感じがする。三首目は冬の苺を洗う場面。実際に身震いするのは指先が冷たい水に触れた主体だろうが、ここでは苺が震え、それが心臓のようであるという。苺の震えが心臓の鼓動に繋がり、手の中の小さないのちを愛しむ心へと展開する。

 望月はこゑを洩らさず摺り足で摺り足でこよひ空を渡れる
 葉桜のそこにあそこにこゑの玉投げ合ひながら小鳥あそべり
 靴紐がほどけて道にかがむとき全方位いま日暮れのごとし

 小島ゆかりの第十五歌集『雪麻呂』から引く。小島も長く介護を続け、現在もその渦中である分、歌集には読んで辛い気持ちになる歌もあるけれど、掲出の三首は日高と同じく日常の一場面を詠む。一首目、満月が夜空を
移動するさまを摺り足だとするのが面白い。
確かに見るたびに少しずつ位置を変えてゆく様子は摺り足で静かに進んでいるように見える。二首目は、鳥の姿は見えないのかもしれない。勢いよく茂る葉桜の四方八方から聞こえる鳥の声を玉の投げ合いのようだと感じて
いる。三首目は朝か昼か夜か、時間はわからない。ほどけた靴紐を結ぼうと屈んだ瞬間、淋しさが日暮れとなって全方位から迫ってきたのだろう。
 日高も小島も長く歌と関わり続けてきた人たちである。何でもない日常の場面など飽きるほど歌にしてきたことだろう。それでも掲出歌には読者を惹きつける力があり、それは二人の物を見る眼と言葉を使う力なのだろうと思う。落ち込んでいる場合ではない。

(後藤由紀恵)