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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉⑨

 上京する人、イカを割く人 
       北山あさひ

 違星(いぼし)北斗(ほくと)は明治三五年に北海道余市(よいち)町に生まれた。アイヌであるために、小学校で和人の同級生から虐めを受けて進学を断念。病気がちな体であったが、道内各地で鰊場・鉱山の手伝いなどをして働く。大正十三年頃から俳句や短歌などの創作を開始。十四年に上京し、東京府市場協会事務員の職に就く。金田一京助らと親交を深めるうちに、アイヌ民族の地位の復興や研究への熱意が高まり、翌年帰道。薬の行商をしながら道内のアイヌの同胞を訪ね歩く。昭和四年一月、呼吸器系の病気が悪化し、二七歳の若さで生涯を閉じた。   

①アイヌッ! とただ一言が何よりの侮辱となって燃える憤怒だ
②行商がやたらにいやな今日の俺金ない事が気にはなっても
③仕方なくあきらめるんだと云ふ心哀れアイヌを亡ぼした心
④「アイヌ研究したら金になるか」と聞く人に「金になるよ」とよく云ってやった


 先日発売された『違星北斗歌集 アイヌと云ふ新しくよい概念を』(角川ソフィア文庫)から引用した。これは「違星北斗研究会」の代表である山科清春が監修に携わり、それまで雑多にまとめられてきた歌稿を改めて整理し直した決定版ともいえる一冊だ。①~④の歌は、アイヌへの差別に憤り、貧しさに耐え、同胞たちの不甲斐ない姿を悲しむ。北斗の歌の大半にこうした感情が迸っており、その境遇にやりきれなさを覚えるとともに、ときに口語を織り交ぜながらの直球で純粋な詠みぶりに惹きつけられる。今回は「都市を詠む」がテーマだから、「東京」について詠んだ歌に注目してみる。

⑤砂糖湯を呑んで不図思ふ東京の三好野(みよしの)のあの汁粉と粟餅
⑥志那蕎麦の立食をした東京の去年の今頃楽しかったね
⑦上京しようと一生懸命コクワ取る売ったお金がどうも溜らぬ
⑧無くなったインクの瓶に水入れて使って居るよ少し淡いが
⑨東京の話で今日も暮れにけり春浅くして鰊待つ間を


 北斗の死後、金田一京助が「東京日日新聞」に寄せた文章によれば、東京時代の北斗は「逢う人、逢う人に愛され、行く所、行く所に好遇されて、生活が安定し、思想が落ち着いて、何一つ不足なく」暮らしていたそうだ。これらの歌にも、その幸福な日々が垣間見られる。⑤⑥意思を持って北海道に戻ってはきたが、相変わらずの貧乏暮らし。金がなく、腹が減る。東京で食べた美味しいものたちが、夢のように思い出される。単純だが、嘘のない心だ。「楽しかったね」の暖かな口語使いに、昔の日々がそっと照らし出される。⑦コクワの実をどれだけ採って売れば、東京までの旅費に足りるのだろう。このけなげな姿の向こうに、都会で成功したマジョリティたちの幻影が見えるようだ。⑧この歌の前には〈葉書さへ買ふ金なくて本意ならず御無沙汰をする俺の貧しさ〉という一首がある。東京で世話になった人に近況を報告することすらままならないのだ。北斗の口語使いには友人に語りかけているような温もりがあって、なおさら切ない。⑨ニシン漁は江戸後期から戦後にかけて北海道の一大産業であり、漁場には道内外から多くの労働者が出稼ぎにやってきた。彼らにとって東京は、貧しさや閉塞感から抜け出すことができる希望の街。北国の春の海の輝きと、彼らの遠い憧れが響き合う。
 その東京では明治四一年に「アララギ」が創刊。大正から昭和にかけて、そのアララギに対抗する形で様々な動きが興ってゆく。斎藤茂吉、前田夕暮、吉植庄亮、土岐善麿が飛行機からの「空中競詠」に臨んだのは、北斗の没年、昭和四年の十一月のことである。東京から遠く離れた北の地で、一人の青年歌人が差別や貧しさや病と闘っていたことを、ぜひ知ってほしい。

 中城ふみ子が上京したのは昭和二六年の秋。北斗とは境遇は全く異なるが、離婚後、幼い子どもを連れたふみ子にとっても、東京は生きていくための、希望を賭けた街だった。

⑩埃ふくガードの下の靴みがき目あげて田舎ものわれを見透す
⑪塩鮭をガスの炎に焼きてゐつ職なき東京けふも曇れり
⑫行きくれて倚る飾窓にふるさとの木彫の熊と会ひにけるかも
⑬わが足のかたちに脱ぎし靴下よ小田急の遠音しみじみと冷ゆ
⑭自家用車持てる友も妻なれば手袋をはく姿が瘠せて

 『現代歌人文庫 中城ふみ子歌集』(国文社)より。⑪地方出身者のコンプレックス。私も丸の内なんかを歩いていると逃げ出したいような気持になる。しかしここでは〈「靴みがき」すら私を田舎者もの扱いする〉といった感情も見受けられ、ある意味では都会のヒエラルキーの中にすでに自らの位置を確保しているとも言える。⑫東京でも食卓に並ぶのはやはり「鮭」。慣れない都会で、職を求めてさまよう焦りや疲れが、じりじりと炙られる鮭に投影される。⑬職探しに疲れ果てているところに、ふと目に入ってきた「木彫りの熊」。北海道の定番の民芸品だ。もしかしたら、ふみ子の家にもあったかもしれない。思いがけず出会えた北海道の仲間に、少しだけ心が和む。⑭帰宅して、コートや靴下を脱ぎちらかして放心しているのだろうか。遠く聴こえる電車の音。あの電車には、きっと都会の労働者たちがたくさん乗っている。⑮家政学校時代の友人か。〈自家用車とめて日本橋に海苔を買ふ友に従きつつ淋しくてならぬ〉という歌もあり、青春時代を共に過ごした友だちが、昔とすっかり変わって「都会の妻」となってしまったことにショックを受けているようだ。車を持ったり、日本橋で高級な海苔を買ったりすることは、ふみ子にとっては幸福ではないらしい(ちなみに「手袋をはく」は北海道の代表的な方言)。結局、ふみ子が東京で働くことはなかった。

⑮冬の皺よせゐる海よ今少し生きて己れの無惨を見むか
⑯血漿を含む北風の野に立ちてわが掌ひらけば石のやじりあり
⑰ふるさとびとのかぶるラツコの毛の帽子わが恋人も老いて冠らむ

 自分の「無惨」な生を見届けてくれる冬の荒々しい海、血の匂いのする荒涼とした原野、ふるさとの人が冬にかぶっている暖かなラッコの帽子。北の大地で生まれ育ったふみ子が心惹かれるのはこのようなものであり、どれ一つ東京には無いのだった。

最後に紹介したいのは明(みょう)美智子(みちこ)。北海道の老舗結社「原始林」の会員であり、昨年「原始林賞」を受賞した。略歴によれば明は昭和二十年富山県生まれ。四六年に北海道函館市に嫁ぎ、おもにスルメイカを扱う水産加工場を長年営んできた。現在も函館市在住。

⑱日にかざす半欠け砥石朝あさをイカマキリ砥ぐ君達ありし
⑲仕舞ひ置かむ君達の名の刻みあるイカマキリ十丁刃先光るを
⑳イカを割きイカを掛けてくれし君達と入りつ日を見し野に影置きて
㉑君達がイカを干す野に歌ひゐし女工節今も耳に顕ちくる
 (「歌壇」二〇二〇年五月号「出面さん 君達」)

 函館といえば、夜景・温泉・そして「イカ」である。「函館朝市」の生け簀にはスルメイカが泳ぎ、観光客は朝採れの活造りを堪能できる。「函館市史」によれば、函館の烏賊釣漁業は明治五、六年頃から本格化した。一時期は捨てるほど獲れたそうで、街には加工場が建ち並び、多くの女性たちがその仕事を支えた。それが「出(で)面(めん)さん」である。「出面さん」とは農作業や田植えなどの「お手伝いさん」を指す北海道方言らしい。⑱⑲「イカマキリ」とはいわゆる「イカ割き包丁」のことだろう。「マキリ」はアイヌの人々が使う小刀を指すが、元々は日本海沿岸で狩猟や漁に使われていたもので、交易によって北海道へもたらされたようだ。道具の呼び名に歴史が生きていて興奮する。そのマキリを毎朝砥ぐのが「出面さん」たちの日課だった。「刃先光るを」で彼女たちの勤勉さがわかる。しかし、工場は閉ざされてしまった。誰もいなくなった作業場に「君達」の姿が生々しく思い出される。⑳忙しく大変な仕事だが、毎日が充実していたことが伺える。これも青春詠と言えるだろう。㉑物悲しい「女工節」もみんなで歌えば賑やかだったにちがいない。明はその出面さんたちを雇う立場だから「君達」という呼び方になるし、「掛けてくれし」になる。その丁寧な距離の取り方に、尊敬と信頼が表れている。

㉒同業の破産がありてしきりにも届くファックス沈痛が載る
㉓静けさは当然なれど二度ばかりこぶしに叩くこのトタン塀
㉔いつ迄も落ち着き難きわれの脳イカ割き台のマキリ傷撫づ
㉕二人のみの解体の日び高きに乗る夫の梯子をふんばり支ふ
㉖会はざるは会はざるままに君達の名をば忘れず死にし人をも


 原始林賞受賞作「工場を閉づ」(「原始林」二〇二〇年四月号)より。スルメイカの漁獲量は二〇一五年度以降、大幅に減少しており、「イカの街」函館も深刻な打撃を受けている。明もやはり工場を閉じるのだが、そのやりきれない気持ちを詠んだ一連に胸が熱くなる。「マキリ」や「君達(出面さん)」という言葉の蓄積の効果と思う。
 ともに時代を生き抜いてきた同業者たち、仕事を支えてくれた出面さんたち、そして夫。みな函館の街を支えてきた人々だ。彼らを大事に詠み続ける明の愛情もさることながら、北洋漁業の一大拠点として、また青函連絡船の就航以降は北海道の玄関口として、さらに明治維新以降、北海道開拓の要として発展してきた「函館」という都市の歴史を、歌中の言葉が次々と呼び寄せるようで魅了された。直接的ではなくとも、私にとってはこれも「都市を詠む」だ。


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