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10月号特集「近代短歌展望」より

近代短歌展望

    京極為兼を知る契機 

                 篠 弘

 第十四代勅撰の『玉葉和歌集』が、昭和十九(1944)年九月に岩波文庫の一冊となり、識者にその全貌が知られるようになる。そして、そのきっかけが土岐善麿編『作者別万葉以後』(大正15.12)の二三人の人選に、玉葉から撰者の京極為兼と、伏見院、永福門院の三人が加わり、かつ巻末における折口信夫(釈迢空)の論文「短歌本質成立の時代」が、それを立証したことから、玉葉や為兼の存在が尊重されることになったことは、すでに今日の定説となっている。このことを確認するとともに、しかし逆に、その創刊以来「写生」「写実」を作歌の拠り所とする歌壇の「アララギ」が、敗戦直後の段階において、そのテーゼを守ることに必死であり、かたくなに首肯しなかった事実を明らかにしておきたい。その定説が容易に受け容れられる状況ではなかったのである。
 このエッセイの主題に入る前に述べておきたいことは、定説を担った善麿と迢空の二人が、超結社の同人誌「日光」(大正13・4)創刊から加わり、親交を結んでいたことである。相互批評をはじめとして、石川啄木の口語歌や窪田空穂の内省的な作品について、同じ意見をもちあう間柄であった。『作者別万葉以後』の序で、善麿が「玉葉風雅へくると、急にはつきりと明るい天地へ出たやうな気もする」と、為兼や永福門院などにべた惚れしたのに対して、迢空が巻末の論文で「人物の選択については、議論もあらうけれど、其には私も責任の片棒を荷うてゐる」と披瀝していた。さらに結語として「我々の時代まで考へて来た所の短歌の本質と言ふものは、実は玉葉・風雅に完成して居たのである」。「万葉の細みは、可なりの歪みは含んで居ても、かうして完成させられたのである」と論断していた。
 このような経緯を考え合わせると、万葉を慕う系譜から為兼を発見した善麿の着想を、迢空が十分に補填し、勅撰集時代における二三人からのアンソロジーが成就したものと見做したい。善麿・迢空という二大歌人による和歌史観が、その後の学界にいかなる影響を与えたかは、浅学の者の言及し得るものではないが、昭和初期に入ってから久松潜一「永福門院」(「国語と国文学」昭和4・10)を皮切りにして、為兼と玉葉・風雅に関する論考が激増してくる。
 火付け役の善麿は、昭和一五年六月に朝日新聞社を定年退職。それを記念して上梓された第十七歌集『六月』は、時代の危機意識や不安感を抽象化した歌集として話題になるが、右翼からその厭戦思想を攻撃されたりした。折から常務理事をしていた大日本歌人協会の解散問題に巻き込まれて、忙殺される。太平洋戦争の勃発とともに時流への追随をよぎなくされるが、まもなく作歌意欲を喪失し、万葉に傾倒した『田安宗武』全四巻(昭和17・5~21・6)の研究に没頭する。
 しかし、その慌ただしい過程で、昭和一八年九月に宿願の『京極為兼』を脱稿したのである。為兼を最初に見出した自負があり、昭和一二、三年頃から着手してきたものと思われるが、戦中・戦後の困難な出版事情に遭遇し、『京極為兼』が公刊されたのは昭和二三年一〇月のことであった。ここで初めて、現役の歌人たちが為兼の存在を知る機会になったのではなかったか。
 まず東京教育大学教授の能勢朝次から、書評『京極為兼』(「八雲」昭和23・2)で、その学術的成果が賞讃されたが、ここで問題にしたいのは、柴生田稔が「日本文学断想(五)―玉葉風雅と京極為兼」(「アララギ」昭和24・1)で批判され、その「新心な写実」の有無が争点となったことである。
 柴生田は「為兼特色がいい工合に現れた好ましい作品」として、次の八首を引く。
  梅の花くれなゐにほふ夕暮に柳なびきて春雨ぞふる(玉葉)
  枝にもる朝日の影のすくなきに涼しさふかき竹のおくかな
  さゆる日の時雨の後の夕山にうす雪ふりて雲ぞ晴れゆく
  浪の上にうつる夕日の影はあれど遠つ小島は色くれにけり
  沈み果つる入日の際に現れぬ霞める山のなほ奥の峰(風雅)
  鶯の声ものどかに鳴きなしてかすむ日影は暮れむともせず
  秋風に浮雲たかく空澄みて夕日になびく岸の青柳
  高瀬山松の下道分け行けばゆふ嵐吹きて逢ふ人もなし

 これらについて、柴生田は「古今集に見るやうな言葉の遊戯や観念の遊戯」がなく、また「新古今集に見るやうな幽玄有心をねらつて丹念にこしらへ上げたやうなところ」もなくて、「何だか清新な一寸近世の歌のやうな感じもする」ことを認める。
 しかし、そのうえで作品のイメージが「散漫で取りとめがなくて、一向はつきりとした写象が浮かんで来ない。いかにも影が薄く、動きがない」ことを、例をあげて言う。たとえば、四首目の〈浪の上に〉について、善麿が「時間的な推移とともに瞬間的な自然の大観をとらへて、悠揚名暢な一首をなしてゐる」とし、「その観察は精透な写実のうちにくつきりと重点をつかんだ」と認めたのに反して、柴生田は「如何にももつともらしいが、実際の場合を考へて見るとどうもうそである」「恐らく想像でこしらへ上げたものであらう」と評していた。五首目の〈沈み果つる〉も、善麿が「極めて印象的な歌である。表現もその自然現象に即した特異なもので、殆ど類型がない」と、「暖かな霞の色」を想像したのに対して、しかし柴生田は「やはり生き生きしてゐない。率然として自然に対したといふ趣がない。そしてどこか工夫のあとがある」と、一貫して懐疑的であったことを知る。
 そのうえで柴生田は、次のように主張するが、玉葉風雅の「清新な写実」を理解するうえで、迢空が見出した「万葉の細み」と称する「たをやめぶり」に全く目をふさいでいた。
   一体写実とは、硝子玉のやうにただ自然を写すの謂ではない。写実の実行には強い主観の力が必要である。対象に働きかけ対象を統一する強烈な感情の動きが必要である。それはいはゆる主観の歌の場合よりももつと意力的でなければならない。その力がゆるむ時そこにかへつて計らひが生ずる。こしらへものが生ずる。自然のありのままといふことは無意味である。また不可能である。私たちの先進が骨を折つて「写生」の説を成就したのはそこである。さういふ意味で為兼の詠風、玉葉風雅の歌風は、決して写生ではない。
(篠さんの文章ではこの部分が一字下げですが、表示が上手く出ないのでこのままにします。)

 柴生田は、斎藤茂吉に師事した中堅歌人。当時の作品は第二歌集『麦の庭』の時代で、その家族詠などを見ると、内部における事実に即して率直に苦悩を捉えていたふしがある。むしろ「主観」を排して「対象」を優先するという、つまり婉曲に屈折した表現の「たをやめぶり」を軽視して「ますらをぶり」に収斂しかねなかったのである。ここで「写実の実行には強い主観の力が必要である」という、大正期の土屋文明以来の「アララギ」の原則論が強調されたが、すでに「アララギ」自体が厳格な事実主義や、倫理性の尊重に傾斜する予兆を見せていたのであり、玉葉風雅の「清新な写実」を許容するゆとりのあるはずはなかった。
 次号の「アララギ」(昭和24・2)で柴生田は「日本文学断想(六)―玉葉風雅と京極為兼追記」を書く。谷宏の「京極為兼―その新風について」(「文学」昭和23・8)が、為兼の歌が「自然をある程度リアルにみる感性と、それを裏打ちする主観情趣の漂いという二本足の上に成り立っている事は疑われぬ」の論断に接し、柴生田は「私が事新しく土岐氏らの評価を批判したりしたのは、不勉強を暴露したもので気の利かない仕事であつた」と述懐した歌壇の対立は、玉葉風雅の研究史のひとこまとして記憶されたい。
        (和歌文学大系『玉葉和歌集(下)』収録月報)

そえがき
 この為兼に関するエッセイは、監修者の久保田淳先生から依頼される。万葉順守のアララギが、いかに頑なに拒否反応を示したか、こうした為兼をめぐる逸話を残しておきたい。

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