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年間テーマ〈特集「都市を詠む」〉④

『光と私語』から考える都市の空気感

     狩峰隆希


 ルームツアーを通して、その人の部屋やライフスタイルのこだわりについて紹介する「キオク的ルーム」というコンテンツがある。ライフスタイルリビルディングチーム・キオク的サンサクの企画の一つで、YouTubeにも動画が上げられている。その第4回「20代美大生〝アメリカンダイナー〟がテーマの1Rひとり暮らし」がエッジの効いた内容でおもしろかった。洋画に出てくるセットを参考にしたそうだが、フローリングだったのを黒と白のチェック柄に貼り替えたり、わざわざ飲食店で使われる業務用の椅子を取り寄せたりするなど、本格的ダイナーさながらの空間を演出している。
 こういう俗っぽい感覚(という言い方がいいのかわからないが)は、同世代の人や都会に暮らす人にとってどの程度共感してもらえるものなのだろうか。本来、ダイナーは人に料理を提供するときにこそ機能性を発揮するのであって、1Rの部屋のレイアウトには相応しくない。けれど住みやすさの是非が問われず、そういうよさとして受容が自然となされるのは、好きなものに囲まれて暮らすことのグルーヴのほうがここでは優先されるからだろう。
 またこのことと関連して思い出すのが、堂園昌彦「都市そのものである歌集」である。これは𠮷田恭大歌集『光と私語』(いぬのせなか座、二〇一九年)の付録栞に寄せられたもので、その中で大山顕の「住宅都市整理公団」について書かれた文章が印象的だった。

 「ひたすら公団住宅をコレクションしているサイトで、全国の団地の写真とそれについての大山顕の感想が並べられている。だが、そこで評価されるのは団地の住みやすさや住民の構成や家賃の相場などではなく、外から見た時の階段の位置の面白さや、各階の手すりのシンメトリーな配置や、屋上構造物の美的なはみ出し具合などだ。つまり、有用性や社会性に注目している限り表れてこないモノ固有の美を再発見し、それを独自の価値観で鑑賞しているサイトなのだ。」

 有用性に関しては、利便性や機能性という言葉と置き換えてみてもよいだろう。いずれにしても都市においてはそれらに困る機会は比較的用意されておらず、望まなくとも一定水準の暮らしやすさを得られてしまう。それが都市生活者の性だと言えてしまうのは僕が恵まれているからかもしれないが、一方でつねに有用的で社会的でいられるために、外部から絶えず干渉を受けているこの状況は、いわばスイッチのオンオフがきかず、より神経がすり減りやすくなるという弊害を持ち合わせているとも言える。このウェブサイトの有用性や社会性への逆張りというのはアメリカンダイナーの話にも通じ、時代や都市の空気感をつかむヒントのように思えたのだった。
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 外部から絶えず受けている干渉や、それによる疲弊とは具体的にどのようなものを指すのか。『光と私語』から引く。

本屋から毎週少しずつ届く乗り物の模型の一部分
アマゾンで腐葉土買えばしばらくは腐葉土の広告のある日々


 二首とも馴染み深い光景である。一首目は、「乗り物の模型の一部分」として付録パーツが届くのだ。全部集めると模型が完成する仕組みになっていて、こちらから定期的に買いに出かけたり、まとまった制作時間を用意したりしなくてもよくなる。二首目は、直近で購入したものやそれに類する商品がしばらく広告でプッシュされる仕様のことを言っている。すぐ目につくので、その商品についていちいち記憶から思い起こすという手間が省ける。
 一見するとメリットだらけだが、これら〈システム〉という干渉を煩わしく思う人は一定数いるはずだ。「毎週少しずつ届く」というのは時間が制約されるということだし、「広告」は購買行動の掌握と誘導である。だが、それら煩わしい側面について掲出歌ではきれいになりをひそめるような作り方がされている。どういうことか。
 ふたたび堂園の話に戻ると、𠮷田の歌は「通常注目されるはずの物事の因果から視線を逸らす、あるいは解像度を下げることによって、世界がもともと持っていた美しさを発見して」おり、それが住宅都市整理公団と似ているという。この「視線を逸らす」「解像度を下げる」といった工程はレトリックそのものと言っていいけれど、同時に、都市で生きるうえで必要以上に疲れないための生存戦略にかかる大事な手続きでもあるだろう。
 われわれは〈システム〉を駆使する裏で、その便利さに見合った代償を支払いつづけている。しかもできるだけ無自覚に、無傷でいながら支払えたら楽だと思う。そうしたとき、便利さと表裏一体である煩わしさのことは度外視しておくのがよく、この度外視という処世術こそが資本主義社会下で求められるレトリックであり、𠮷田が技術の一つとしてもっているものなのである。そして間違っても煩わしさ自体を便利さの代償のように扱ってはいけないのだ。

知り合いの勝手に動く掃除機を持っていそうな暮らしをおもう

 先の二首が煩わしさを包み隠していたのに対し、この歌では「勝手に動く掃除機」の勝手さ、すなわち煩わしさの片鱗のようなものに言及している。実際にはAIが搭載されているわけだが、「勝手」と表す視線はどこか冷めている。掃除機の所有者が〈私〉か〈他者〉であるかによって、度外視の幅が生じるということだろうか。

ジョージは死して甲羅を残し、国中の奇祭を網羅するウィキペディア
結婚をすると会社が二万円くれるらしくて考えている

 一首目は連作の内容からして、百年生きたゾウガメとして知られるロンサム・ジョージのことであろう。亀が死んだら甲羅が残る。そのことと並行してウィキペディアの「国中の奇祭を網羅する」ことの価値が語られるのが滑稽だ。二首目、福利厚生としてそういう〈システム〉がある。ここでは二万円が妥当か否かという判断は介在せず、二万円がもらえることの便利さにかまけて結婚をするか否かという二択がすでにして生じていると読んだ。あらかじめ天秤にかけるものを見誤ったまま「考え」に走っているところがスリリングだ。ウィキペディアも二万円も〈システム〉の輪郭が強調され、それだけで都市の産物として映ってしまうような引力をこの歌集からは感じる。
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 ところで、度外視の対象になにを置くかという選択は、社会構造や権力構造といった要素とは無縁ではいられないということにも触れておきたい。
 最近、牛尾今日子と田島千捺の企画する「現代短歌よもやまばなし」を興味深く読んだのが、その中に口語都市詠に関するトピックがあり、今年刊行された永井祐歌集『広い世界と2や8や7』(左右社)を起点に、都市生活詠で書かれている都市生活者への印象について話が広げられていた(ちなみに、ここで口語都市詠として想定されているのが鈴木ちはね『予言』、阿波野巧也『ビギナーズラック』、𠮷田恭大『光と私語』、山階基『風にあたる』)。
 田島は、作品内での都市生活者への印象を次のように話す。

「そこにものがあることだけをそっと指し示すような、なにか意見や主張を付け加えることはせず、自分の認識を素直に差し出して「こうなっている」という空間を見出す目線があるとして、それって、その社会構造で搾取されているひとがいる、いま目の前にある社会について無言になっているのではないか。社会への異議申し立てを際立って行わないですんでいるという特権性があるよね、という気持ち。」

 この「無言になっている」「異議申し立てを際立って行わないですんでいる」というあたりが、僕の考えている度外視のレトリックと少なからず重なりをみせる。ただ、難しいのが搾取の構造などに対してなにか言及しないとき、必ずしもそのことを黙認しているとは限らないということだ。定型の短さやそれ以外の事情で言及が不可能な場合もある。また特権性への指摘は、角度を変えるとノンポリ批判の文脈と深いところでつながっていることに気づくだろう。
 他方、牛尾は創作物のもつ能力を踏まえたうえで、それが発揮される限界というか、適正な状況を見通しているようだ。

「創作物はその内容や設定によって現代の社会において周縁化された集団をエンパワメントすることができるけど、あらゆるマイノリティを一気にエンパワメントしたり/すべての権力勾配に抗うことはできなくって(なおかつ権力勾配に抗う以外にもいろんな仕事はあって)、だから、その作品が仕事と定めた範囲のことをやるってことでいいんじゃないかな。」

 このあと小原奈実「沈黙と権力」(「短歌」二〇一九年十月号)を取り上げ、短歌定型のキャパシティと「既存の社会的・文化的通念の内在化」との拮抗について触れることとなる。

京都から来た人のくれる八つ橋と京都へ行った人の八つ橋
それだって日々だしコインロッカーに入れっぱなしの東京ばなな


 同じく『光と私語』から。メタ的なことを言うと身も蓋もないのだが、都市は固有名詞にこそ宿るものだ。京都という都市、東京ばななという都市。そういった目に見えるものでなく、その奥にある空気や構造といった内面的な部分から「都市を詠む」ことについて考えてみた。

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「まひる野」五月号